第23話 査定その三・答申
期限の日の朝は、紅茶の冷めるのが早かった。
口をつける前に三度も扉を見た自分に気づいて、私は卓上の帳簿をわざと音を立てて開いた。査定の期限を把握しているのは査定する側の義務であって、待っているのとは違う。断じて違う。
それでも約束の鐘が鳴ったとき、ページをめくる指が一拍だけ止まった。
「答申に参りました」
扉口に立った犬——元王子セドリックは、型どおりの礼を一つしてから入室した。一月前、私はこの男に査定その三を課した。私の代わりを探しなさい、と。上級儀典官ロゼリア・ヴァルモンテの職務を肩代わりできる人材を、期限一月で。
見つかるはずがない、というのが私の試算だった。儀典官の職掌は国璽の管理から外交席次の裁定まで十七項目。これを一人でこなす人間は帝国に私しかいない。だからこそ、この男が「やはりあなたしかいません」と頭を下げに来る確率を、私は八割五分と見積もっていた。残り一割五分は、探すふりをして期限切れを待つ。男の弁明には定型がある。
「代わりは、見つかりませんでした」
ほら。予算内の答え。私は頭の中の査定欄に減点の数字を書き込みかけ——手を止めた。
犬が卓上に置いたのは、詫びの口上ではなく、書類の束だったからだ。
「ですから、代わりを一人で立てることを、やめました」
一枚目。儀典官の職掌十七項目を、性質別に四部門へ分割した一覧表。二枚目、各部門の責任者要件と候補者三名ずつ。三枚目から先は、四部門を束ねる補佐機構の組織図と、決裁の流れを示した線図だった。
私はまず紙から値踏みした。一枚、銅貨二枚の上質紙が十六枚、製図用の定規線、写字の外注なし——全部この男の手書きだ。費目で言えば紙代だけで銀貨三枚強、蝋燭代込みの労力概算七十時間。犬の小遣い帳には重すぎる支出である。減価償却の見込みも立てずに、よくもまあ。
次に中身を検めた。候補者の名簿には、私が頭の中で「惜しいが半人前」と分類していた者たちが、ちょうどその半人前ぶんの職掌だけを宛がわれて並んでいる。一人では誰も私の代わりにならない。四人なら、なる。私が三年かけて諦めた人材の使い道を、この男は一月で換算し直していた。仕入れ値は同じなのに、帳簿の組み方だけで黒字に変わる類いの計算だ。腹立たしいことに、検算しても合っている。
「あなた一人が全項目を背負っていることが、そもそもの欠陥です」犬は静かに続けた。「あなたが倒れれば、帝国の儀典は三日で止まる。代わりを一人探すのは、その欠陥を別の一人に移すだけのことです。ですから、誰も——あなたも、あなたの後任も、二度と全部を背負わずに済む形を考えました」
私は目を見開いた。
自分でも分かるほど、はっきりと。
王宮の男たちは、皆「君しかいない」と言った。かつての殿下も、宰相も、父でさえも。君しかいない、という言葉は、勘定書の宛先を私一枚に書き換える便利な印章だった。押す側は、押すたびに自分の荷を軽くしてきた。
この男は、逆のことをしている。
「……これを口実に、わたくしに戻れと言うおつもりですの」
「いいえ。あなたが戻る場合も、戻らない場合も、どちらでも回る設計です。あなたの去就を、機構の前提に置いていません」
即答だった。声は揺れず、弁明の湿り気もない。私は扇の骨を指先で数えた。七本。落ち着くまでに三本ぶん余計にかかった。
「ずいぶんなことをしてくれましたのね。わたくしの職務を勝手に棚卸しするなんて、越権ですわ」
「査定に必要な範囲で行いました。罰があるなら、お受けします」
私は組織図にもう一度目を落とした。四部門の境界線には素人くさい引き方が二箇所、決裁線が一本余計。だが骨格は通っている。修正費用、私の赤入れ二晩分。一から建て直すより、はるかに安い。
胸の奥で、数字が合わなくなっていた。予想八割五分の、その外側。この答申を載せる費目が、私の帳簿のどこにもない。
帳簿外。
私はペンを置き、扇を開いて口元を隠した。
「……減点はいたしません」
「ありがとうございます」
「加点もまだですわ。決裁線が一本多い。明日までに引き直しなさい」
「はい」
犬は一礼して書類を抱え直した。その手つきが、荷物を運ぶ手ではなく、図面を守る手だった。
扉が閉まってから、私は冷めきった紅茶を一口だけ飲んだ。淹れ直しは頼まなかった。冷めた茶の損失より先に、片づけるべき計算が残っている。私は査定簿を開く。査定その三、判定保留。理由は記載しない。記載できる費目が、まだこの帳簿にないからだ。
ただ一行だけ、観察記録として書き足しておく。
この男は今、私を便利に使わない方法を考えている。




