第24話 検印に要した半拍
朝の光が決裁室の机に落ちる頃になっても、私はまだ昨夜の保留を数え直していた。
判定保留、という四文字がこれほど寝覚めに障るものだとは知らなかった。
保留したのは私だ。なのに、待たされている気がするのはどういうわけか。
ノックは、約束の時刻きっかりに鳴った。早くも遅くもない。時間の守り方一つにも、査定が及んでいると知っている音だった。
「お持ちしました」
セドリック・ヴェルダンテ。元王子、現・査定中の犬。差し出された図面を受け取り、私は机の上に広げた。紙の端がわずかに波打っている。夜通し引き直した跡だと、指先が先に読み取った。読み取った事実は、採点には含めない。徹夜は努力であって、成果ではない。
決裁線。昨日、一本多いと指摘した線は消えていた。代わりに引かれていたのは、補佐機構から儀典局へまっすぐ通る一本。私を経由しない線だった。私が熱を出した朝も、私がこの帝都から消えた冬も、この線は止まらずに動く。
「説明なさい」
「上級儀典官の決裁は、儀礼の格に関わる三件のみに絞りました。残りは補佐官二名の連署で流れます」
「わたくしの仕事を減らした、ということかしら」
「……お守りするための線です」
短い。相変わらず台詞の短い男だ。だが昨日と違って、線は正しい。図面のどこを突いても、私という柱に寄りかかっていない。穴を探した。三度探した。見つからないことが、こんなに収まりの悪いものだとは。
私は朱筆を取り、図面の隅に検印を置こうとして——半拍、遅れた。
「……ご苦労様」
言ってから、自分の声がいつもより半音低かったことに気づいた。彼は一度だけ目を見開き、それから深く頭を下げた。弁明も、礼の上乗せもしない。それがこの男の覚えた作法だった。
帳簿に費目を立てておく。検印一件、所要時間、通常比プラス半拍。超過分の原因は不明につき、雑費で処理。雑費の積み上がる帳簿は、いずれ監査が入るものと相場が決まっているが、その監査人の心当たりはない。
窓辺で、陛下が長々と伸びをした。彼が入室してきたとき、いつもなら長椅子の裏へ消える肥えた毛玉が、今日は窓辺の定位置から一歩も動かなかった。日向に腹を預けたまま、尻尾の先だけがゆるく揺れている。逃げるに値せず、と査定が下りたらしい。彼が陛下のほうを見て、見なかったふりをして、それでも口元だけがわずかに緩んだのを、私は見なかったふりをした。猫の検印は、私のより半拍早い。猫に先を越される儀典官というのも、帳簿の付けようがない。
「下がりなさい。図面は預かります」
「はい」
扉が閉まるのと入れ替わりに、家令が銀盆を運んできた。
「お嬢様。本日のお声は、平素より半拍ほど上等でございました」
茶を注ぐ手は止めないまま、目も上げないまま、それだけを言う。私は手の中の扇の骨を、一本、二本と数えた。八本目で数えるのをやめた。
「気のせいですわ」
「左様でございますね」
家令はそう言って恭しく一礼し、盆の上の書簡を一通、茶器の真横——最悪の位置に置いた。ヴェルダンテからの報せだった。
封を切る。王宮の俸給が二月分、止まっているという。廷臣たちは質屋の帳場に勲章を並べ、王室手形は額面の三割で投げ売られている。沈む船から逃げる算段だけは、誰もが早い。そして報せの末尾に、細い字で一行。逃げ先を探す旧貴族派の幾人かが、囁き始めているという——廃された王子の名を。
担ぐ神輿は軽いほどよく、傷のある神輿は恩を売りやすい。連中の算盤の弾き方なら、私にもよく分かる。分かるからこそ、紙を持つ指に力が入った。
「あの方のお耳には」
「まだ入れません。しばらくは、わたくしの胸に留めますの。それが妥当ですわ」
「左様でございますね」
家令の声は、留めるのは胸でよろしいのですか、と聞こえなくもなかった。聞こえなかったことにした。
査定簿を開く。査定その三、合格。観察記録——この男は、私が居なくなった後の国の形を、私より先に描いた。
その下に続けるべき言葉が、見つからない。
帳簿外。
夜。自室の灯りを一つだけ残し、私は母の形見のペンダントを開いた。蓋の裏に嵌まった小さな鏡。怒った顔も泣いた顔も、人前に出す前に一度ここで検めなさい——母はそう言って、これを私の首にかけた。
鏡の中の灰青の目は、いつも通りの私の目だった。いつも通りの、はずだった。蝋燭の火が揺れるせいか、薔薇色の髪が一筋ほどけて頬に落ちているせいか、目の奥の何かが、定位置から半拍だけずれている。
俸給の止まった王宮。投げ売られる手形。囁かれ始めた、彼の名。あの図面は私の居ない国の設計図で、あの噂は——彼の居ないこの屋敷の、予告状だ。
検めた。確かに検めた。
揺れていた。——認めるのは、まだ早い。
蓋を閉じる音が、思ったより大きく、部屋に響いた。




