第22話 幕間・夜の手帳(犬視点)
店じまい間際の文具商で、セドリックは一冊の手帳を買った。
銅貨三枚。表紙は染めの甘い灰色で、紙は薄く、灯りに透かせば向こう側の指が見えた。王太子であった頃なら、献上の目録にすら載らない品だ。店主は釣り銭を数えながら、夜更けに手帳を一冊だけ買う客の顔を見もしなかった。それでいい。白紙であること、それだけが条件だった。
帰り道、夜気は冷えていた。城の灯りが丘の上に見える。かつて自分の机があった棟の窓は、今夜も明るい。誰かがあの机で、誰かの分まで書類を捌いている。セドリックは歩調を変えずに通りを折れた。
下宿に戻り、燭台に火を入れる。机の上には、もう一冊の帳面がある。彼女から「いただいた御言葉」を書き留めてきた帳面だ。表紙は手擦れで角が丸くなり、もう数頁が埋まっている。開けば、どの頁にも彼女の声が並んでいる。査定の言葉。叱責の言葉。ごく稀に落ちる、短い「及第」の一言。セドリックはそれを写すことで一日を終えてきた。写す、という行為に迷いはなかった。元の言葉が正しいからだ。正しい言葉を写している間、ペンは一度も止まらない。
今夜は、その隣に新しい手帳を開いた。
課題は明瞭だった。査定その三——「私の代わりを探しなさい」。期限は一月。儀礼、外交、財政、社交、派閥。五つの領分を担える人材を挙げよ、という命である。
セドリックは候補の名を書いた。書いては、線を引いて消した。儀礼に通じた老伯爵は派閥の均衡に疎い。外交に長けた書記官は社交の席で三分と保たない。財政畑の俊英は他領分との接合点を持たない。そして先日の才媛は——五領分のすべてに及第しながら、彼女のたった一問に沈んだ。問いの刃が特別に鋭かったのではない。五つの領分が一人の頭の中で繋がっている者にしか、答えようのない問いだったのだ。
十一人目の名を消したところで、ペン先が紙の上で止まった。
インクが乾く。乾いてもまだ、次の名前が出てこない。セドリックは止まったままのペンを見下ろした。手が先に答えを知っていて、頭がそれを認めるのを待っている——そういう止まり方だった。
代わりはいない。
それが結論なら、課題は不成立だ。彼女の前に立ち、あなたしかいないと告げて頭を垂れる道もある。事実だからだ。だが、それは事実の半分でしかない。残りの半分はこうだ——五つの領分を一人で背負える人間がこの国にただ一人しかいないのなら、欠けているのは人材ではない。一人に全部を背負わせて成り立たせてきた、その組み方のほうだ。
ペンが動いた。
——代わりはいない。ならば、ひとりに背負わせる構造を変えなければならない。
書いてから、セドリックは続けた。儀礼と社交は地続きだから一房に束ねられる。外交には専任の次席を置く。財政は会計院の権限を広げ、常設の補佐機構とする。派閥の調停だけは、束ねる者の手元に残さねばならない。五つの荷を一つの頭に積むのではなく、四つを支える机を先に組み、最後の一つを担う者の隣に据える。誰が座るかは、まだ書かない。器を先に描く。名前のない機構の図を、線と枠で引いていく。下手な図だった。だが線は迷わなかった。
これは弁解にならない、と一度だけ自問した。課題は「探せ」であり、「作れ」ではない。命に背く答えだ。減点は覚悟の上で出す。探し尽くした帳尻として出すのではなく、探し尽くしたからこそ見えたものとして出す。十一本の消し線が、その順番を保証していた。
ふと、隣の帳面に目が行った。御言葉の帳面の字は、整っている。手本のある字だからだ。新しい手帳の字は崩れ、行は右へ傾き、枠は歪んでいた。それなのに、こちらのほうが——自分の字に見えた。
彼女はこの図を見て、何と言うだろう。減点か。論外と一蹴するか。それとも、あの扇の陰で、眉をわずかに上げるか。
想像の中のその一瞬の表情に、胸の奥で何かが小さく音を立てた。セドリックはそれを御言葉の帳面には記さなかった。写すべき言葉ではなく、まだ名を持たない側のものだったからだ。
蝋燭が指の幅ほどに短くなるまで、図を引き直した。最後に最初の頁へ戻り、冒頭の一行を読む。
それは、初めて誰にも命じられずに書いた一行だった。




