第18話 王家の印章、文鎮になる
公聴の夜は、終わってからのほうが長い。
記録に戻った事実は七件。訂正された名義はひとつ、私の名。それだけのことなのに、帝都へ戻る馬車の中で、私は何度も指を折って数え直した。数字は減らないし、増えもしない。それでも数えてしまう夜が、人にはある。
儀典局の私室に灯りを入れ、机の上に広げたままの席次表へ向かったところで、扉が叩かれた。
「夜分に失礼します。報告に参りました」
セドリックだった。元王子は、敬語の角をひとつも崩さずに、扉の内側で姿勢を正していた。貴族院で七件を読み上げたその口で、今夜も同じ硬さの声を出す。
「公聴の結果は、すでに伺っておりますわ。記録は訂正、名義はわたくしに。報告はそれで全部ですわね」
「もう一件あります」
彼は懐から布包みを取り出し、ほどいた。台座つきの印章。ヴェルダンテ王家の紋。王家の公文書用——儀典局が回収を失念したまま、彼の手元に残っていたものだ。台帳の上では、とうに局の棚にあることになっている。
彼はそれを、机の上でも、私の手の中でもなく、私の足元に置いた。床に膝をつき、両手で、音を立てずに。
「公聴で事実は記録に戻った。だが私自身の中で精算が済んでいない。私は文字を書く者より判を捺す者が偉いと思っていた——逆だった。重みは全部、文字の側にあった。返納の前に、一晩でも、あるべき手の中に置かれるべきだと考えました」
弁明はなかった。最初から最後まで、ひとことも。
私は屈んで、それを拾い上げた。費目を立てるなら「王家の重み」一式。計上してみれば、存外軽い。十年間あれほど大きく見えたものの正体が、片手で持てる金と石の塊だとすると、差額はどこに消えていたのか。仕入れ値を疑うべきだったのだ、もっと早く。
「一晩だけ」
預かる、と言った。没収ではない。返してもらうのでもない。彼の言葉を借りるなら、置かれるべき場所に一晩置くだけだ。
「儀典局の棚より、今夜はここが正しい置き場所ですわ」
私はそれを席次表の端に置いた。来月の式典、帝国の席次。風もない部屋に紙押さえが要るかどうかは別として、王家の印章が帝国の式典の席次表を押さえている図は、なかなか帳尻の合う眺めだった。
「明朝、返納文を添えて儀典局へ。文はあなたが書きなさい。自筆で」
「承知しました」
一礼して、彼は下がった。廊下の足音が遠ざかり、消えた。印章は文鎮の顔をして黙っていた。
夜半、私は席次の検討に戻った。大公家と辺境伯家の並びを入れ替え、楽団の位置を半歩ずらし、修正の線を三本引く。そのあいだずっと、紙の端では獅子の紋がこちらを向いていた。十年間、この紋の下で私は文字を書き続けた。書いた文字は彼の名で出て、彼の名で誉められ、彼の名で綴じられた。今夜はその紋が、私の引いた線の上で、紙が風に逃げないよう番をしている。雇い入れた覚えはないが、働きぶりは悪くない。
——妃だった頃。彼の名で出る文書の清書を終えた夜、余白に自分の名を書きかけたことがある。一文字目の途中で手が止まり、書きさしの一画を、小刀で紙を薄く剥いで消した。剥ぐあいだ、灯りの油の減りだけを数えていた。名を書く資格の話ではない。書いた者の名が載らない帳面の話だ。あの夜の削り屑は、どの帳面にも載せ場所がなくて、未処理のまま十年寝かせてあった。今夜、ようやく消し込めた気がする。緋色がかった薔薇色の髪が灯りに透けるのを、私は他人の持ち物のように眺めた。
翌朝、彼は約束の刻限より早く来た。徹夜の目をして、それでも襟は正されていた。差し出された返納文を、私は窓際の光で読んだ。直すところは二箇所しかなかった。誤字がないという意味ではない。逃げ道がないという意味だ。経緯、失念の責の所在、再発の防ぎ方。判を捺す者の文ではなく、責任を取る者の文になっていた。
かつての彼なら、こういう文は書かなかった。書かせて、目を通さず、判だけを捺した。その判が今、私の席次表の上で一晩の勤めを終えて、持ち主の書いた文に添えられて帰っていく。順番として、ようやく正しい。
「これでよろしいでしょうか」
「上出来ですわ。発送なさい」
彼は頷き、自分の手で印章を布に包み直した。指先が紋の上で一度だけ止まり、それきり迷わなかった。印章は文とともに梱包され、儀典局へ発送された。受領印が戻れば、台帳の上の嘘もひとつ消える。私の手元には何も残らない。残ったのは、席次表の隅についた台座の跡と、一晩ぶんの眺めの記憶だけ。
王家の印章も、うちに来ればただの文鎮。悪くない眺めだった——帳簿外。
【家令】
昨夜、儀典局へお返しする品が一点。お嬢様は『手元には何も残らない』と仰せでしたが、席次表の隅に、台座の丸い跡がひとつ。本日の拭き取りは、見送られた由にございます。
……左様でございますね。




