第17話 私がしたことは、署名
嗤うために集まった息で、議場の空気は重く、甘く濁っていた。
ヴェルダンテ貴族院の公聴席がここまで埋まるのは十年ぶりだと、案内の老吏が誇らしげに言った。誇ることではない。みな見物に来たのだ。臣籍を降りた元王子が、女の仕事を読み上げに来るという滑稽を、特等席で嗤うために。
扇が鳴る。囁きが鳴る。誰かが賭けの話をしている。何分で降壇するか、何件目で声が裏返るか。
私は傍聴席のいちばん奥に座っている。
入口では警吏に止められた。本日はその、込み入っておりまして、と。
「外交儀礼院の儀典官ですわ。通商関係の公聴を傍聴する権利がございましてよ」
権利で座る。誰かの厚意でも縁故でもなく。だから誰の前でも俯かない。
壇上に、簡素な礼服が上がった。飾緒も略綬もない。襟元だけが、まっすぐだった。
「本日は、訂正のために参りました」
ざわめきは止まない。彼は止むのを待たず、最初の紙をめくった。
「一件目。通商法第三十二条改正の原案。これはヴァルモンテ公爵令嬢の仕事です。私がしたことは、署名です」
笑いが起きた。よく言った、潔いことだ、と手を叩く者までいる。拍手の形をした嘲りだった。彼は二枚目をめくった。
「二件目。南方塩税の段階軽減案。これはヴァルモンテ公爵令嬢の仕事です。私がしたことは、読み上げです」
三件目、関税台帳の統一様式。これはヴァルモンテ公爵令嬢の仕事です。私がしたことは、署名です。四件目、隊商保険の最低基準。これはヴァルモンテ公爵令嬢の仕事です。私がしたことは、読み上げです。同じ形。同じ速さ。同じ平らな声。紙をめくる手だけが、規則正しく動く。
「茶番だ」最前列から声が立った。「女の名を借りて同情を引くのか」
追従の笑いが波になって広がる。彼は怒鳴り返さなかった。紙から目を上げ、声の主を探しもせず、ただ壇上に立って、待った。
十年前のこの人は、議場の野次に顔を赤くして、言い返そうとして、言葉を噛んだ。みなそれを覚えているから、今日も同じ見世物を期待して来た。
今は、待っている。扇の内側で私は唇だけ動かした。そう、お待ちなさい。あなたはもう、それができる。
沈黙は長かった。野次は二度、三度と重ねられ、そのたびに彼はただ待った。応えない壁に石を投げ続けるのは、投げる側のほうが先にみっともなくなる。野次のほうが疲れた。議場が静まりきってから、彼は続けた。咎めもせず、勝ち誇りもせず、同じ平らな声で。
「五件目。港湾使用料の相互減免案。これはヴァルモンテ公爵令嬢の仕事です。私がしたことは、署名です」
六件目あたりで、嗤いが目に見えて薄くなった。繰り返しが正確すぎるのだ。茶番なら、どこかに芝居が混ざる。声が湿るか、目が客席の反応を探すか、間が崩れるか。彼は何も探さず、何も崩さず、ただ事務を事務として一段ずつ積んでいった。嗤うための取っ手が、どこにもない。
「七件目。冬期航路の燃料備蓄規程。これはヴァルモンテ公爵令嬢の仕事です。私がしたことは、読み上げです。以上七件につき、登載の訂正を求めます」
記録官が立ち上がる。羊皮紙が広げられ、乾いた声が読み上げた。
「右七件、起案者をロゼリア・ヴァルモンテ公爵令嬢と登載し直す」
一件ずつ、番号と題名と、私の名。七度。議事録は議場の誰より口数が少なく、議場の誰より忘れない。
ロゼリア・ヴァルモンテ。
十年間、この議場で一度も呼ばれなかった名が、石の壁に当たって、いちばん奥の私のところまで戻ってきた。緋色がかった薔薇色の髪を、隣の列の誰かが振り返って確かめた。見せておけばいい。その名の持ち主は、ここにいる。
十年、書いた。十年、消された。それが今日、七度呼ばれた。
扇を開く。内側で口元を隠す。隠したものが何だったかは、誰にも見せない。扇は便利ね、とだけ記しておく。
降壇の間際、最前列の男が捨て台詞を投げた。
「それで、あなたに何が残る」
彼は足を止め、半歩だけ振り向いて、一言を置いた。
「事実が」
それだけ言って、階段を降りた。言い足さない。釈明しない。靴音が、静まり返った議場に妙によく響いた。男は二の句を用意していたはずなのに、受け取る相手がもういないので、口を開けたまま座り直した。
散会のざわめきの中、隣の老婦人が小声で訊いてきた。あの方とお知り合いですの、と。
「ええ。わたくしの犬ですわ」
老婦人は聞こえなかった顔をなさった。それでいい。
帰り際になって、ようやく分かった。嗤い声の中で彼だけが静かだった、のではない。最後には彼の静けさだけが議場に残って、嗤いのほうが、居場所を失くしていた。




