第16話 二杯目を出す種類のお客様ではなかった
朝の応接間に、一枚の名刺が運ばれてきた。
グランヴィル侯爵。ヴェルダンテ王家の旧側近筆頭で、私を捨てた国の、捨てさせた側にいた男だ。帝都くんだりまで先触れ一枚で乗り込んでくる用件に、心当たりはひとつしかない。セドリックが昨日、貴族院へ出した公聴の請願——それを嗅ぎつけて、潰しに来たのだ。
名を見た瞬間、胸の奥で算盤の珠がひとつ、勝手に動いた。警戒とも怒りとも違う、もっと座りの悪い感触。私はまだ、それをどの費目に落とせばいいのか分からずにいる。
この十日、セドリックは書斎にこもって目録を作っていた。七件の政策——慈善基金、通商条約の草案、王宮費削減、復興税、ほか三件。原案の写しと御前会議の記録と書簡を一枚ずつ突き合わせ、自分のしたことは署名六回と読み上げ七回だけ、と書面にしていく作業だ。犬の仕事としては上等が過ぎる。餌代の費目を「犬」から「書記補」に付け替えるべきか、三日ほど真剣に検討した。
朝に覗いたときは、机の上が見事だった。左に原案の写し、中央に議事録、右に書簡の束。七件それぞれに紐で綴じた束がひとつずつ。どの政策のどの段落が、いつの会議で、誰の口から「殿下のご発案」にすり替わったか。日付と頁数まで添えてある。十年分の入出金を一行ずつ照合するような根気仕事を、あの男は文句ひとつ言わずに続けていた。
そして貴族院に公聴の請願を出した途端、これである。鼻が利くこと。請願の写しが受理印より先に旧側近の手へ渡ったのだとしたら、ヴェルダンテの文書管理は帳簿より穴が多い。
応接間で、侯爵は元主君に向かって長々と説いた。
「あの政策群は、王家に残された数少ない誇りにございます。あれが女の手柄だったなどと、公の場で仰せになるおつもりか。国の体面に関わりますぞ」
女、ときた。減価償却もできない「体面」とやらに、ずいぶんな維持費を計上なさるのね——口には出さず、扇の内で勘定だけ済ませる。当事者の席で算盤を鳴らすのは行儀が悪い。
セドリックは退かなかった。
「体面の下で、原案者の名は十年消されました。同じことだと分かりましたので、公表いたします」
「お分かりではない。あれが他人の案だったと知れれば、王家が十年誇ってきたものは何になります」
「最初から、誇る資格のないものになります。私が署名した六回と、読み上げた七回ごと」
侯爵の頬が動いた。説き伏せに来た相手から、勘定書を読み上げられるとは思っていなかったのだろう。
「殿下。お戻りになれる芽が、まだ残っておりますものを」
「今戻れる芽があるのなら、それは虚名の上に生えた芽です。腐った土に生えたものを、口に入れる気はありません」
敬語のまま、弁明はひとつもせず、声も荒げない。侯爵は言い回しを三度変え、三度とも同じ岩に当たり、最後には黙って立ち上がった。馬車の音が遠ざかる。手ぶらの帰路にしては、ずいぶん重そうな背中だった。
扉が閉まると、家令が音もなく茶器を下げた。
「お茶は一杯でお止めいたしました。二杯目をお出しする種類のお客様ではございませんでしたので」
「四十年分の査定ですわね」
「左様でございますね。茶葉と湯と、注ぐ者の手間。利の戻らぬお相手に二杯目を投じるのは、当家の家計方針に反します」
家令まで費目で物を言うようになった。私が口にできない評価を、この男は湯加減の話のように卓へ置く。便利な分業だこと。
セドリックが頭を下げた。
「お騒がせしました。あなたの応接間で」
「応接間は減りませんわ。茶葉一杯分の経費だけ、目録の末尾にでも付けておきなさい」
「承知しました」
冗談のつもりだったのに、彼は本当に書き留めそうな顔をした。
夜。書斎の机に、仕上がった目録が積まれていた。本人は湯を使いに下がっている。検めるのは私の仕事だ。枚数が欠けていて公聴で困るのは、原案者の側なのだから。これは点検であって、興味ではない。
七件目の備考欄に、一行だけ、私的な文字があった。
『私の名誉は、彼女の無名の上に建っていた。これは返済であって、寄付ではない』
返済。寄付ではなく。——貸借の科目を、いつの間に覚えたのか。寄付なら受け取る側が頭を下げる。返済なら、頭を下げるのは払う側だ。あの男は科目をひとつ選ぶことで、十年分の利息ごと自分の側に付け替えていた。
ついでに最初の頁と最後の頁を見比べてしまった。字が違う。最初の頁は王子の字だ。飾りが多く、署名のために整えられた、見せるための字。最後の頁は線が減って、読まれるための字になっていた。十日で、人の字はこうも——
言葉の使い方も、字も、変わってきた。
——枚数の確認よ。帳簿外。
「お嬢様、お茶の替わりをお持ちいたしますか」
「ええ。二杯目を出す種類の夜ですわ」
「左様でございますね」




