第15話 盗んだ骨を返しなさい
拍手の音は、扉一枚を隔てると雨に似ている。
十年前の冬、私はそれを覚えた。覚えたまま、利息を付けて寝かせてある。
今夜、犬に取り立ての通知を出す。
雇って半月。二度目の査定の夜である。私室の机には勤務記録の束が積まれ、犬——元王太子セドリックは、扉の内側の敷物に膝を揃えて控えていた。門番小屋の隣から呼びつけてまだ一言も発していない。よい姿勢だ。姿勢は無給だが。
「ヴェルダンテ伯絡みの照会、半日で片づけましたわね」
「はい。文書庫の旧い書記官に、顔の利く者が三名おりましたので」
「三名」
私は帳簿を開き、新しい行を引いた。
「費目、情報資産。内容、王宮の裏の地図十年ぶん。減価償却はいたしません。この手の資産は古いほど値が上がりますから」
「……恐縮です」
「褒めてはおりません。記帳しただけです」
ついでに靴底の磨耗を経費に立てる。半月で踵が三ミリ減った。歩いた距離だけは嘘をつかないので、私は犬の働きを数字でしか信用しない決まりにしている。徴税台帳の照合、滞納利息の再計算、隣領との水利交渉の下調べ。どれも期日より早く、どれも私が直す箇所のない仕上がりで戻ってきた。
「それから、厨房の女中があなたに焼き菓子を渡したそうですが」
「いただきました。職務上の判断です。断ると角が立ちますので」
「現物支給として給金から差し引きます。胡桃入りなら二枚ぶん」
「……一枚でした」
「では一枚ぶん。正直は控除いたしません」
数字の上で、この犬は明らかな黒字だった。並の文官の半年ぶんは動いた。認めるしかない。認めるのは無料だから、惜しまずに認める。
だが——芸と信用は、別の費目に立てるものだ。
「査定その二を出します」
犬の背筋が、わずかに伸びた。
「あなたが王太子として、貴族院で『殿下の英断』と拍手をいただいた政策がございますわね。慈善基金の制度設計。隣国との通商条約の草案。王宮費の削減案。北部水害のあとの復興税の組み替え。細かいものまで数えれば、全部で七件」
一件読み上げるごとに、犬の顔から色がひとつずつ引いていく。蝋燭の灯りでもそれと分かるほどに。
「七件すべて、原案を書いたのは私です」
十年前の冬の夜を、私はいまでも帳簿のように開くことができる。
慈善基金の条文を書き上げたのは夜明け前だった。インクが凍りかけて、蝋燭の火で壺を温めながら最後の条項を埋めた。三週間後、御前会議の扉の外を通りかかったとき、中でそれが読み上げられていた。私の書いた文章は、句読点の位置まで私のものだった。読み終わりに拍手が降った。雨に似た音だった。扉越しに「殿下の英断」と誰かが叫び、私は廊下に立ったまま、自分の文章に他人の名前が被さっていく音を、最後まで聞いた。
通商条約の草案は三晩で書いた。王宮費の削減案は、削られる側の女官たちの名簿を全部覚えてから書いた。復興税の組み替えは、北部から届いた被災の報告書を読みながら、桁を一つも間違えないことだけを自分に課して書いた。七件、ぜんぶ覚えている。書いた者は忘れない。読み上げただけの者が忘れるのだ。
あの夜の蝋燭代は、いまだにどこにも計上されていない。
「課題を申し渡します」
私は声を低くした。怒鳴る必要はない。取り立てというものは、静かな声でするほど確実になる。
「次の貴族院の公聴の場で、その七件すべてについて、原案の筆者が私であることを、あなた自身の口から公表なさい」
犬は答えなかった。答えられないのだろう。
分かっている。これは彼の経歴の全否定だ。王位を失い、臣籍に降りた男に残った最後の残光——「あの政策の殿下」という呼び名そのものを、自分の手で吹き消せと言っている。七件を返せば、彼には何も残らない。何も残らないところから始めなさい、と言っている。
「一件でも省いたら、その時点で契約は終わりです」
「……七件、すべてですか」
「すべて、ですわ」
丁寧に、ゆっくりと言った。言葉は丁寧であるほど重くなる。私はそれを王宮で学んだ。
「あなたの芸は買い取りました。けれど信用は、まだ仕入れておりません。仕入れ値は——これです」
犬は長いあいだ床を見ていた。やがて顔を上げ、敬語を崩さず、弁明をひとつも挟まずに言った。
「期日を、お示しください」
「公聴は十日後です」
「……十日」
「準備には十分ですわ。事実を読み上げるだけのことに、推敲は要りませんもの。あなたはそれを、御前会議で一度なさっているでしょう」
私は帳簿を閉じた。閉じる音だけが部屋に残り、それから最後の一行を、声に出して付け加えた。
「犬になりたいなら、まず、盗んだ骨を返しなさい」




