第14話 及第点ですわ、殿下
採点の朝は、いつも少しだけ空気が硬い。
硬いのは空気であって、私ではない。私の心拍はゆうべから一度も帳尻を狂わせていない——はずだ。
自室の窓辺で、母の形見のペンダントを開く。
小さな鏡の中の顔を検める。口元、よし。眉、よし。揺れていない。よろしい。「公爵令嬢は鏡の前でだけ泣きなさい」——母の言いつけどおり、泣く予定も泣いた形跡もない顔だ。昨夜あの紙束を二度読み返したのは、採点の正確を期しただけのこと。一度目は誤りを拾うため、二度目は拾い漏れを潰すため。それだけだ。読み物として面白かったからでは断じてない。断じて。蓋を閉じる。冷えた金属が指先で小さく鳴った。階下へ降りる。階段の一段ごとに、頭の中の採点表をもう一度めくる。減点二箇所、加点一箇所、結論は——もう出ている。出ているものを、当人の前で読み上げるだけだ。
書斎には家令が立会いに控え、その手前でセドリックが膝をついて待っていた。背筋は伸び、手は膝の上、目だけが静かにこちらを追う。本当に犬ね、と思う。餌の皿ではなく採点表を待つ犬。それも、待てのできる犬。
「採点を申し渡します」
紙束を机に置く。重さは昨夜と同じはずなのに、机に置いた音だけが妙に大きく聞こえた。
「設問のうち九割、正答。数字の読み違いが二箇所、これは減点」
「はい」
頷きが早い。自分の誤りの場所を、言われる前から把握している頷き方だ。提出したあとで読み返して、気づいて、それでも書き直しを願い出なかった——願い出れば心証を買えると知っていて、買わなかった。その分は、減点欄の隅にごく小さく書き添えておく。誰にも見せない欄に。
「弁明は」
「ありません」
よろしい。弁明は利息のようなもので、つけばつくほど元本の印象が悪くなる。元王子ともあろう方がそれを心得ているのは——いえ、心得ていて当然だ。当然のことに加点はしない。
「ただし——三枚目」
彼の指先が、わずかに動いた。書き直された三枚目。あの弔意の一節。彼はそれを、哀れみの飾りではなく「王家が落とした借りの肩代わり」と読み替えて、書き切っていた。気遣い、という安い語を一度も使わずに。借りと書くなら返済の義務が生じる。返済の義務を自分の側に置く書き方を、彼は自分で選んだのだ。
「これは、認めます」
短く言う。長く褒めるのは予算外だ。称賛という費目は、計上しすぎると相手の頭の中で勝手に複利がつく。
「総合して——及第点です」
セドリックは床に額がつくほど頭を下げた。肩が一度だけ上下した。泣き言もなければ長口上もない。やがて上げた顔の、目の奥が少し明るくなっていた——のを、私は見て見なかったことにした。帳簿に載らないものは存在しない。存在しないものは、胸の奥で妙な音を立てたりもしない。
「お立ちなさい。契約条文を読み上げます」
家令が契約書を広げる。羊皮紙が乾いた音を立てた。
「第一条、呼称は『犬』。わたくしはあなたを名では呼びません。異議は」
「ありません。むしろ——お許しいただけるなら、誇らしく思います」
「誇るのは早いですわ」
褒められ待ちの尻尾が見える気がする。振るんじゃありません。
「第二条、寝床は門番小屋の隣。毛布は二枚まで支給します」
「過分なご配慮を」
「配慮ではなく備品管理よ。凍えられると医者代がかかります」
「第三条、給金は出します」
「無給で構いません。あなたにお仕えできるだけで」
「却下。無償の献身は最も高くつくのよ。後払いの請求書ほど怖いものはなくってよ」
費目で言えば、無償とは「金額未定・期日未定・利率は相手の気分」。そんな債務を抱えるくらいなら、月々の犬の餌代として計上したほうがよほど健全だ。
「第四条、査定は続きます。本日の及第点は本日限りですわ」
「承知しております」
家令が一礼し、羽根ペンとインクを差し出す。一拍の間。セドリックはペンを取り、迷いのない手つきで署名した——名だけを。家名を書くべき場所は、空白のまま。
「家名は」
「犬に家名は要りません」
顔色ひとつ変えずに言う。家令の眉が一瞬だけ持ち上がり、すぐ元の位置に戻った。長年この屋敷に仕える家令の眉を動かしたのだから、相応の答えではあったのだろう。
「なお」家令が、契約書を引き取りながら付け加えた。「当家で雇用契約に立ち会いますのは、これで三十一人目にございます。——署名の欄に家名をお書きにならなかった方は、お一人目でございました」
余計な記録をつける男だ。四十年ものの帳簿は、墨で書く。一度書けば、削っても痕が残るから始末に困る。
査定中の身でそういう正答を重ねるのだから、この犬は油断ならない。減点の余地を探したが、見つからなかった。探したこと自体は、帳簿に書かないでおく。
契約書を引き取り、私は胸の帳簿にもう一度書き入れる。本日付、及第点、と——二度目は声には出さない。一日に二度褒めると、犬は図に乗るのだから。




