第一話 将軍様、悪役令嬢として目覚める。
「お嬢様、お目覚めください」
遠くから、柔らかな女の声が聞こえてくる。
「お嬢様。朝でございます」
薄く目を開けた先にあったのは、見知らぬ天井だった。
白い天蓋から、花や植物の刺繍が施されたレースが垂れている。カーテンの隙間から差し込む朝日が、広い寝室の一角を淡く照らしていた。
しばらく、天井を眺める。
ここはどこだ。
少なくとも、私の寝室ではない。
「お目覚めですか、お嬢様」
声の方へ顔を向ける。
黒いワンピースに白いエプロン。長い髪を三つ編みにして後ろでまとめた、十七、八ほどの娘が立っていた。
「……貴様は?」
「マリアでございます」
「マリア?」
「はい。お嬢様の侍女のマリアでございます」
聞いたことのない名前だった。
「ここはどこだ?」
「お嬢様の寝室でございますが……」
ゆっくりと上体を起こしたところで、身体の違和感に気づいた。
妙に軽い。
それだけではない。
腹部にあったはずの重みが消え、代わりに胸元に覚えのない重さがある。
自分の腕へ目を落とす。
寝間着の袖から伸びていたのは、細く白い、少女のものとしか思えない手だった。
「……何だ、これは」
「お嬢様?」
両手を目の前に掲げる。
拳を握る。開く。
もう一度、握る。
間違いなく自分の意思で動いている。
自分の手だ。
だが、断じて自分の手ではない。
掛け布団を跳ねのけ、ベッドから降りる。
「お、お嬢様!?」
マリアの声を無視して、部屋の隅にあった姿見の前へ立った。
長い金髪。透き通るような白い肌。ルビーを思わせる大きな赤い瞳。華奢な腰に、細く長い脚。
そこに立っていたのは、見知らぬ美しい少女だった。
腕を組む。
鏡の中の少女も腕を組んだ。
眉をひそめる。
少女も眉をひそめる。
首を傾げる。
少女も首を傾げた。
「……ふむ」
一度、鏡から目を逸らす。
そして、もう一度見る。
やはり少女がいる。
「私は誰だ」
「え?」
「私が誰なのかと聞いている」
怪訝そうな顔をしながらマリアが答える。
「ローゼンベルク侯爵家のご令嬢、エリザベート・フォン・ローゼンベルク様でございます」
「エリザベート……」
知らない。
数秒ほど、敵国による拉致や工作の可能性を検討する。
だが、どの仮説も目の前の現実を説明できない。
それよりも。
昨日まで、自分はどこで何をしていた?
記憶をたどる。
昨日は祖国の独立記念日だった。
軍事パレードの壇上に立ち、整然と行進する人民解放軍を眺めていた。
戦車が続き、巨大な大陸間弾道ミサイルを載せた輸送車が大通りを進む。
沿道を埋め尽くした人民は国旗を振り、涙を流し、祖国の偉大なる発展を称えていた。
その光景を前に、祖国と自分自身の偉大さを噛み締めていた、その時だ。
突然、胸に激痛が走った。
息ができない。
視界が暗くなる。
壇上から崩れ落ちた自分を取り囲み、側近たちが叫んでいた。
医者を呼べ。
AEDを持ってこい。
早く使え。
お前がやれ。
誰もが叫び、誰も自分から手を出そうとはしなかった。
そして。
薄れていく意識の中で最後に見たのは、側近の一人がほんの一瞬だけ浮かべた、微かな笑みだった。
それ以降の記憶はない。
「……そうか」
静かにつぶやいた。
どうやら私は、あの時死んだらしい。
キム・ヒョンソク。
朝陽民主人民共和国最高指導者。
朝陽労働党総書記にして、人民解放軍最高司令官。
父と祖父の偉業を受け継ぎ、国家の繁栄と人民の幸福のために生涯を捧げてきた男。
その生涯は、あまりにも唐突に終わった。
そして今。
自分は、見知らぬ少女の身体の中にいる。
到底理解できない。
だが、理解できないからといって、目の前の現実が消えるわけではない。
「……実に不可解だ」
「お嬢様、本当に大丈夫でございますか?」
「問題ない」
「ですが……」
「問題ないと言っている」
もちろん、動揺はしている。
だが、それを部下の前で見せるわけにはいかない。
最高指導者たるもの、いかなる事態に直面しようとも、人前では威厳を保たねばならない。
それがたとえ見知らぬ美しい少女に転生してしまったとしても、だ。
「マリアといったか」
「は、はい」
「本日の予定はどうなっている」
「予定……ですか?」
「そうだ」
マリアは困惑した様子で答える。
「お嬢様は三日間もお眠りになっていたのですよ。今日は決して無理をなさらず……」
「問題ないと言っている。本日の予定を説明しろ」
「でしたら、本来は王立魔法学園へ登校なさる予定でございます」
「魔法学園?」
「はい」
魔法。
聞き間違いだろうか。
「今、魔法と言ったか?」
「え?」
「魔法とは何だ」
「……魔法は、魔法でございますが」
「それでは説明になっていない」
「お嬢様に魔法をご説明するなど、私には……」
埒が明かない。
ならば、その学園とやらへ行って自分の目で確かめるべきだろう。
昨日までなら、魔法など物語の中にしか存在しないと一笑に付していた。
だが、その自分は今、見知らぬ少女の身体の中にいる。
この状況で常識に固執する方が非合理的だ。
何より、情報が足りない。
この世界の仕組み。
国家。
社会制度。
そして、エリザベート・フォン・ローゼンベルクという少女の立場。
まずは情報収集である。
「分かった。学園へ行く」
「えっ」
「聞こえなかったか?」
「い、いえ。それでは、お着替えをお持ちします」
マリアはほっとした様子で衣装棚へ向かった。
しばらくして、彼女は一揃いの制服を抱えて戻ってきた。
黒を基調とした上着に、大きな赤いリボン。その中央には宝石が輝いている。スカートには幾重ものレースがあしらわれていた。
エリザベートは無言でそれを見つめた。
「……何だ、それは」
「制服でございます」
「まさか、それを着るのか?」
「はい。お嬢様もお気に入りだったではありませんか」
眉間に深く皺を寄せる。
かつて軍事パレードで幾万もの兵士を鼓舞し、大陸間弾道ミサイルの発射実験を指揮してきた男である。
その自分が。
リボンとレースで飾られた制服を着て、学校へ行く。
「ほかの服はないのか」
「ほか、と申しますと……ドレスでしょうか?」
「違う。もっと簡素なものだ」
「簡素なもの……ああ。平民向けの制服でしたらございますが」
「それを用意しろ」
「えっ」
「二度言わせるな」
「か、かしこまりました……」
マリアは困惑したまま部屋を出ていった。
まったく。
この身体の持ち主は、相当に華美な生活を送っていたらしい。
あれだけの装飾を施すために、どれほどの労働力と資材が費やされているのか。
非効率極まりない。
もっとも、前世の自分の衣装部屋にも、職人に仕立てさせた特注服が何十着と並んでいたことについては、特に思い至らなかった。
一人になったエリザベートは、カーテンを開いた。
窓の外に広がっていた光景を見て、目を細める。
広大な庭園。
その向こうには石造りの街並みが続き、舗装された道を馬車が行き交っている。
さらに遠くには城壁。
その奥にはいくつもの尖塔を備えた巨大な城がそびえていた。
自分の知る世界ではない。
少なくとも、それだけは間違いなさそうだ。
ならば、いつまでも寝室に閉じこもってはいられない。
自分が何者なのか。
ここはどこなのか。
この世界はどのような仕組みで動いているのか。
一つずつ確かめればいい。
窓ガラスに、金髪の少女の姿が映っている。
かつての面影など、どこにもない。
「エリザベート・フォン・ローゼンベルク、か」
小さくつぶやく。
「せめて、もう少し威厳のある顔にはならないものか」
不満げに頬を膨らませたその表情が、むしろ愛らしさを増していることなど、本人だけはまったく気づいていなかった。
こうして元独裁者キム・ヒョンソクの、奇妙な第二の人生が幕を開けた。




