↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/2

第一話 将軍様、悪役令嬢として目覚める。

「お嬢様、お目覚めください」

遠くから、柔らかな女の声が聞こえてくる。

「お嬢様。朝でございます」


薄く目を開けた先にあったのは、見知らぬ天井だった。

白い天蓋から、花や植物の刺繍が施されたレースが垂れている。カーテンの隙間から差し込む朝日が、広い寝室の一角を淡く照らしていた。


しばらく、天井を眺める。

ここはどこだ。

少なくとも、私の寝室ではない。


「お目覚めですか、お嬢様」

声の方へ顔を向ける。

黒いワンピースに白いエプロン。長い髪を三つ編みにして後ろでまとめた、十七、八ほどの娘が立っていた。

「……貴様は?」

「マリアでございます」

「マリア?」

「はい。お嬢様の侍女のマリアでございます」


聞いたことのない名前だった。

「ここはどこだ?」

「お嬢様の寝室でございますが……」


ゆっくりと上体を起こしたところで、身体の違和感に気づいた。

妙に軽い。

それだけではない。

腹部にあったはずの重みが消え、代わりに胸元に覚えのない重さがある。


自分の腕へ目を落とす。

寝間着の袖から伸びていたのは、細く白い、少女のものとしか思えない手だった。

「……何だ、これは」

「お嬢様?」

両手を目の前に掲げる。

拳を握る。開く。

もう一度、握る。

間違いなく自分の意思で動いている。

自分の手だ。

だが、断じて自分の手ではない。


掛け布団を跳ねのけ、ベッドから降りる。

「お、お嬢様!?」

マリアの声を無視して、部屋の隅にあった姿見の前へ立った。

長い金髪。透き通るような白い肌。ルビーを思わせる大きな赤い瞳。華奢な腰に、細く長い脚。

そこに立っていたのは、見知らぬ美しい少女だった。

腕を組む。

鏡の中の少女も腕を組んだ。

眉をひそめる。

少女も眉をひそめる。

首を傾げる。

少女も首を傾げた。

「……ふむ」

一度、鏡から目を逸らす。

そして、もう一度見る。

やはり少女がいる。


「私は誰だ」

「え?」

「私が誰なのかと聞いている」

怪訝そうな顔をしながらマリアが答える。

「ローゼンベルク侯爵家のご令嬢、エリザベート・フォン・ローゼンベルク様でございます」

「エリザベート……」

知らない。

数秒ほど、敵国による拉致や工作の可能性を検討する。

だが、どの仮説も目の前の現実を説明できない。

それよりも。

昨日まで、自分はどこで何をしていた?

記憶をたどる。


昨日は祖国の独立記念日だった。

軍事パレードの壇上に立ち、整然と行進する人民解放軍を眺めていた。

戦車が続き、巨大な大陸間弾道ミサイルを載せた輸送車が大通りを進む。

沿道を埋め尽くした人民は国旗を振り、涙を流し、祖国の偉大なる発展を称えていた。

その光景を前に、祖国と自分自身の偉大さを噛み締めていた、その時だ。

突然、胸に激痛が走った。

息ができない。

視界が暗くなる。

壇上から崩れ落ちた自分を取り囲み、側近たちが叫んでいた。

医者を呼べ。

AEDを持ってこい。

早く使え。

お前がやれ。

誰もが叫び、誰も自分から手を出そうとはしなかった。

そして。

薄れていく意識の中で最後に見たのは、側近の一人がほんの一瞬だけ浮かべた、微かな笑みだった。


それ以降の記憶はない。


「……そうか」

静かにつぶやいた。

どうやら私は、あの時死んだらしい。

キム・ヒョンソク。

朝陽民主人民共和国最高指導者。

朝陽労働党総書記にして、人民解放軍最高司令官。

父と祖父の偉業を受け継ぎ、国家の繁栄と人民の幸福のために生涯を捧げてきた男。

その生涯は、あまりにも唐突に終わった。


そして今。

自分は、見知らぬ少女の身体の中にいる。

到底理解できない。

だが、理解できないからといって、目の前の現実が消えるわけではない。

「……実に不可解だ」

「お嬢様、本当に大丈夫でございますか?」

「問題ない」

「ですが……」

「問題ないと言っている」

もちろん、動揺はしている。

だが、それを部下の前で見せるわけにはいかない。

最高指導者たるもの、いかなる事態に直面しようとも、人前では威厳を保たねばならない。

それがたとえ見知らぬ美しい少女に転生してしまったとしても、だ。


「マリアといったか」

「は、はい」

「本日の予定はどうなっている」

「予定……ですか?」

「そうだ」

マリアは困惑した様子で答える。

「お嬢様は三日間もお眠りになっていたのですよ。今日は決して無理をなさらず……」

「問題ないと言っている。本日の予定を説明しろ」

「でしたら、本来は王立魔法学園へ登校なさる予定でございます」

「魔法学園?」

「はい」


魔法。

聞き間違いだろうか。

「今、魔法と言ったか?」

「え?」

「魔法とは何だ」

「……魔法は、魔法でございますが」

「それでは説明になっていない」

「お嬢様に魔法をご説明するなど、私には……」

埒が明かない。

ならば、その学園とやらへ行って自分の目で確かめるべきだろう。

昨日までなら、魔法など物語の中にしか存在しないと一笑に付していた。

だが、その自分は今、見知らぬ少女の身体の中にいる。

この状況で常識に固執する方が非合理的だ。

何より、情報が足りない。

この世界の仕組み。

国家。

社会制度。

そして、エリザベート・フォン・ローゼンベルクという少女の立場。

まずは情報収集である。


「分かった。学園へ行く」

「えっ」

「聞こえなかったか?」

「い、いえ。それでは、お着替えをお持ちします」

マリアはほっとした様子で衣装棚へ向かった。

しばらくして、彼女は一揃いの制服を抱えて戻ってきた。

黒を基調とした上着に、大きな赤いリボン。その中央には宝石が輝いている。スカートには幾重ものレースがあしらわれていた。


エリザベートは無言でそれを見つめた。

「……何だ、それは」

「制服でございます」

「まさか、それを着るのか?」

「はい。お嬢様もお気に入りだったではありませんか」


眉間に深く皺を寄せる。

かつて軍事パレードで幾万もの兵士を鼓舞し、大陸間弾道ミサイルの発射実験を指揮してきた男である。

その自分が。

リボンとレースで飾られた制服を着て、学校へ行く。

「ほかの服はないのか」

「ほか、と申しますと……ドレスでしょうか?」

「違う。もっと簡素なものだ」

「簡素なもの……ああ。平民向けの制服でしたらございますが」

「それを用意しろ」

「えっ」

「二度言わせるな」

「か、かしこまりました……」

マリアは困惑したまま部屋を出ていった。


まったく。


この身体の持ち主は、相当に華美な生活を送っていたらしい。

あれだけの装飾を施すために、どれほどの労働力と資材が費やされているのか。

非効率極まりない。


もっとも、前世の自分の衣装部屋にも、職人に仕立てさせた特注服が何十着と並んでいたことについては、特に思い至らなかった。


一人になったエリザベートは、カーテンを開いた。

窓の外に広がっていた光景を見て、目を細める。

広大な庭園。

その向こうには石造りの街並みが続き、舗装された道を馬車が行き交っている。

さらに遠くには城壁。

その奥にはいくつもの尖塔を備えた巨大な城がそびえていた。

自分の知る世界ではない。

少なくとも、それだけは間違いなさそうだ。

ならば、いつまでも寝室に閉じこもってはいられない。

自分が何者なのか。

ここはどこなのか。

この世界はどのような仕組みで動いているのか。

一つずつ確かめればいい。


窓ガラスに、金髪の少女の姿が映っている。

かつての面影など、どこにもない。

「エリザベート・フォン・ローゼンベルク、か」

小さくつぶやく。

「せめて、もう少し威厳のある顔にはならないものか」

不満げに頬を膨らませたその表情が、むしろ愛らしさを増していることなど、本人だけはまったく気づいていなかった。


こうして元独裁者キム・ヒョンソクの、奇妙な第二の人生が幕を開けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。