第2話 二枚目の署名
■1.
朝一番に、馬が二頭、前庭に入った。蹄が砂利を踏む音が、窓の油紙を細かく震わせる。馬の鼻から出る息が白い。
ヴァルト商会の代理人ブラントは、四十五歳の痩せた男だった。上等な外套の襟を立て、革手袋を外しながら階段を上がってくる。
隣の若い男は、鍵付きの革鞄を胸に抱えていた。集金人だと名乗った。
「ヴェルナー閣下。お加減が戻られたと聞き、安心いたしました」
「心配をかけた。座ってくれ」
俺は襟元に指を入れた。朝、オズワルドが着せた上着の首が、きつい。
この体は、俺より首が太い。二つ目の釦を外しても、息の通りは変わらなかった。
応接間の長机には、昨夜揃えた受取証が、四つの束に分けて置いてある。暖炉に火はなく、紙の端が冷えて少し反っていた。二人が席に着く前、オズワルドが俺の肘のそばで囁いた。
「閣下。本当に、認めますでしょうか」
「認めなければ、照合に行く。照合に行けば、誰かが困る」
「誰か、とは」
「それを一番知りたいのが、たぶんあの男だ」
老人は目を伏せて、壁際へ下がった。
ブラントは束を一瞥して、笑顔を崩さなかった。目だけが、束の厚みを測っている。商人の目だった。
「本日は、半期のお支払いの件で。利息が三百七十枚、元本の一部が二百三十枚。合わせて六百枚で、よろしいですな」
「その前に、確認したいことがある」
「何なりと」
「ここ三年の受取証を、すべて見直した。おかしなものが四組ある」
束の中から四組を抜き出し、二枚ずつ重ねて並べた。同じ借用証、同じ月、同じ金額。
「二度、払っている」
ブラントの笑顔が、口の端で止まった。
「……ほう」
「去年の霜月に百二十枚。一昨年の卯月に百枚。残りが八十枚と七十枚。合わせて三百七十枚だ」
「それは、帳簿の上の」
「受領の署名が、どちらにもある。一枚目はあなたの名前。二枚目は、別人の字だ」
ブラントは机の受取証を見た。見てから、言った。
「集金人が交代した折に、記録が重なったのでしょう。よくある手違いで」
「そうか。交代した集金人は、どなたかな」
ブラントの視線が、隣の若者に動いた。若者は鞄を抱えたまま、小さく首を振る。
「私は、二年前からです」
「二枚目の字は、四枚とも同じ手だ。一番古いのは、一昨年の卯月。二年前から来た方の字ではないな」
「それは」
「去年の二枚も、この方の字とは違う。では、誰の字だ」
ブラントは答えなかった。
「商会の本部には、受領の台帳があるはずだ」
俺は、二枚目の四枚だけを手に取った。
「この署名が台帳に載っているか、照合してもらえないか。写しは取ってある。こちらから本部へ送る」
ブラントが息を吸った。
「閣下。そのようなことは、わざわざ本部の手を煩わせるまでもなく」
「手間はこちらで負う。問題は、二重に払った金だ」
「いえ、その」
「三百七十枚。本日の支払いに充ててもらいたい」
壁際で、護衛隊長のミラが剣の柄に手をかけたまま、こちらを見ている。鞘の金具が、彼女の呼吸に合わせてかすかに鳴った。ブラントは唇を湿らせた。
「過払いを、本日の六百枚に充当せよ、と」
「そうだ。台帳の照合を待たずに済む」
「……」
「それとも、照合したほうがいいか」
外で、馬が足を鳴らした。
ミラは動かない。オズワルドも動かない。動いているのは、ブラントの手だけだった。
ブラントは膝の上で、手袋を裏返した。表に戻した。もう一度、裏返した。
「閣下がそこまで仰るのであれば。事務上の手違いとして、充当を認めましょう」
「助かる」
俺は羊皮紙を一枚、机に広げた。
手のひらが汗ばんでいる。表情に出ていないか、それだけが気になった。顔の筋肉の使い方も、まだ借り物だ。
「では、本日の支払いの整理だ。六百枚のうち、過払い分の三百七十枚を充当する。現金で二百枚を払う。残りは三十枚」
「残りの三十枚は、本日中に」
「無理だ。領庫が空になる」
「それは、困りますな。期限は期限で」
「だから、書面で猶予を取りたい」
ブラントの眉が上がった。
「猶予、と」
「来月末まで、三十枚の支払いを待つ。契約書の第十二条に、代理人は受領と期限の変更を代理する、とある」
借用証の該当箇所を示した。オズワルドが昨夜、蝋燭を三本使って探し出した条文だ。
ブラントは条文を読んだ。読み終えて、顔を上げた。
「半月では、いかがでしょう。来月末は、少し長い」
「半月では、領庫に三十枚が入る当てがない」
「当てがなくとも、お約束は」
「入らない約束を書面にしても、困るのはあなたの本部だ。来月末なら、入る」
嘘ではない。入る当ては、今夜から作る。
ブラントは、集金人の若者を一度見た。若者は、鞄を抱えたまま何も言わない。
「……来月末、で」
「あなたの権限の範囲内のはずだ。書面にして、代理人印を押してもらう」
「口頭では」
「議事録に残す。私も署名する。後で言った言わないになるのが、一番高くつく」
議事録の末尾に、俺も署名した。ブラントが筆を取るまでに、四つ呼吸があった。数えていた。
来月末まで、三十枚。代理人ブラント。印。
印は、少し斜めに押された。
「ありがとう。受領書も頼む。現金二百枚と、充当三百七十枚。合わせて五百七十枚。日付と署名を」
「……承知いたしました」
ブラントは、すべてに署名した。俺は一枚ずつ、金額、日付、番号を読み上げて確かめた。
集金人が、現金二百枚を鞄に移す。十枚ずつ布に包んで、二十包。
途中で若者が数え間違え、十一枚の包みを作った。俺が指摘すると、顔を赤くして数え直した。金貨の音が、応接間に二百回響いた。
領庫の底が、一枚ずつ見えてくる音だった。ブラントは、その間ずっと窓の外を見ていた。
「帰りに、一つだけ聞いていいか」
立ち上がったブラントに、声をかける。
「何でございましょう」
「半期ごとの受取証に、連番を振る習慣は、商会にあるか」
「……いえ」
「そうか。あれば、こんな手違いは起きなかったな」
ブラントは外套の襟を直した。扉へ向かう背中に、もう一度声をかける。
「もう一つ。これは、何だ」
二枚目の一枚を持ち上げ、紙の隅を指で示した。小さな朱の点がある。針の先ほどの大きさで、四枚すべての、同じ位置に。
ブラントが振り返った。
「……さあ。商会の様式にはございませんが」
「あなたの隣の方は」
「いえ、私も、見たことが」
集金人が鞄を抱え直した。
「四組とも、二枚目にだけある。一枚目にはない。偶然かな」
ブラントは手袋を嵌めようとした。右手の指が、手袋の口に二度入らなかった。三度目で入った。
「その点については、本部で調べさせます」
「頼む」
それ以上は追わなかった。追う材料が、まだ手元にない。
ブラントは一礼して出ていった。集金人が後を追う。蹄の音が前庭から遠ざかっていく。
「閣下」
ミラが、剣から手を離した。背筋を伸ばしたまま、言う。
「あの男、最後に何を企んでおりましたか」
「さあ。手袋がうまく嵌らなかっただけだ」
「しかし、あれほど動揺する姿は」
「俺にも理由は分からない」
正直に言った。ミラは目を細めた。
「閣下は、全てお見通しなのですね」
「見通していない」
「はい」
「本当に、見通していない」
「承知しております」
承知していない顔だった。
扉の脇で、オズワルドが頭を下げている。肩が小さく上下していた。腹の前で組んだ老人の指が、白くなっている。笑っているのか、泣いているのか、聞くのはやめた。
俺は受取証を手に取り直した。二枚目の隅の、朱の点。四枚とも、縁から同じ幅の位置にある。
定規を当てたいところだが、この館に目盛りのある定規があるかどうか、まだ知らない。指の幅で測るしかなかった。偶然で、針の先は揃わない。
「閣下」
ミラが、受取証に顔を近づけた。
「その朱から、魔力を感じます」
「魔力」
「ごく僅かです。針で刺したような。魔印の類かと」
「魔印とは」
「魔力で押す印です。偽造を防ぐために商人が使うこともあれば」
ミラは言葉を選んだ。
「仲間内の目印にも」
俺には、ただの赤い点にしか見えない。
「他の三枚は」
「四枚とも、同じ波です」
魔力を見分ける目は、この体にはないらしい。見えないものを、ミラが見ている。
「オズワルド。この点を、以前に見たことは」
「ございません」
「そうか」
右手の甲が、じわりと熱い。見ると、灰色の紋が薄く赤みを帯びていた。さっきから、朱の点の近くでだけ熱を持っている。
(傷跡の熱だろう)
そう思うことにした。治りかけの傷は、天気や疲れで疼くことがある。
受取証を、机の端へ遠ざけてみた。熱は、すぐには引かなかった。少し弱くなっただけだ。
「閣下、手が」
ミラが、俺の甲を見ていた。
「古傷が疼いただけだ」
一枚目と二枚目を並べて、角を揃えた。二枚目は四枚とも、紙の目が細かい。一枚目より少し厚く、同じ月の受取証なのに、同じ店の紙ではない。
手の熱は、頭の隅に仮置きした。原因の欄は空白のままだ。
三十枚の猶予は取れた。だが、取れすぎている。
ブラントは一度しか値切らなかった。押し返せる男が、あれで引くはずがない。押し返せない事情が、向こうにある。
その事情は、朱の点に繋がっている。確証はない。仮の勘定だ。
(いま分かっているのは、点が四つあって、位置が揃っていることだけだ)
分かったことが一つある。あの男は、点の意味を知っている。知らない者の手は、手袋で三度も迷わない。




