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赤字の辺境領を黒字にしただけなのに、元経理課長が「覇王」と呼ばれ始めた  作者: ノーコードLab


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第1話 期限は明朝

■1.


蛍光灯が一本、切れかけて点滅していた。決算前夜の廊下。四十二歳の俺は、三日目のシャツの袖で額を拭った。


携帯が鳴った。部下の声が、受話器の向こうで震えている。


「課長。期限は、明朝です」


「いくらだ」


答えを聞く前に、膝が折れた。床が近づいてくる。誰かが俺を呼んでいた。



■2.


目を開けると、老人が泣いていた。


「閣下。期限は、明朝でございます」


同じ言葉だった。


「いくらだ」


口が先に動いた。期限と聞けば、金額を聞く。経理課長の反射だ。


出した声が、低い。自分の声ではない。


「利息と元本の一部で、金貨六百枚。領庫には二百しかございません」


金貨。領庫。


頭が、言葉を拾えていない。窓に硝子はなく、油紙が貼ってある。梁が低く、燭台の蝋燭が細く揺れていた。


病院ではない。夢にしては、床が冷たすぎる。


「失礼だが、あなたは」


「閣下……お熱が、まだ」


老人は床に膝をついたまま、顔を上げた。泣き腫らした目だった。


「家宰のオズワルドでございます。三十八におなりになったばかりの閣下が、三日も目を覚まされず。医師は、もう、と」


「閣下とは、誰のことだ」


「ガルド・ヴェルナー閣下、ご自身でございます。この辺境の、領主様で」


「俺が」


「はい」


老人は袖で目の下を拭った。冗談を言っている顔ではない。


俺は自分の手を見た。右の中指に、ペンだこが硬く残っている。爪は短く切ってある。


自分の手より、指が一節ぶん長い。手の甲に、灰色の紋が焼き付いている。傷跡かと思ったが、指でなぞると、そこだけ温かい。


(持ち主は、よく書く男だったらしい)


夢なら、そろそろ覚めていい頃だ。覚めない。証拠だけが、一つずつ増えていく。


「明朝、貸し主の代理人が参ります。お支払いが整わなければ」


老人は言葉を切った。その先は、聞かなくても顔に書いてあった。状況は、何ひとつ飲み込めない。


ただ、一つだけ、触れる話があった。借金だ。返済期限と残高。数字なら、場所を選ばない。


分からないものは、後回しにする。確定できる数字から触る。


「借用証と、ここ三年の帳簿を出してくれ。利息の支払い記録もだ」


「今から、でございますか」


「明朝に債権者と座るんだろう。相手の数字を知らずに座る気はない」


羊皮紙の束は、紐で縛っただけだった。燭台を寄せて、一枚ずつめくる。蝋燭が一本尽きた頃、指が止まった。


「去年の霜月。利息を二度払っている」


「は」


「同じ月に、同じ額が、二枚。受け取った側の署名が違う」


老人が覗き込み、黙った。


「……閣下は、一目で見抜かれたのですか」


「一目じゃない。半刻かかった。合わない数字が気持ち悪いだけだ」


三年分で、同じ月が四つあった。扉の向こうで、衛兵が囁いた。


「額を聞いても顔色ひとつ変えず、帳簿を……」


「債権者の弱みを探しておられるんだ」


弱みじゃない。領収書だ。



■3.


四つの二重払いを、羊皮紙の裏に書き出した。羊皮紙の裏はざらついていて、ペン先が毛羽に引っかかる。インクが滲まないよう、数字を小さく詰めた。


百二十枚。百枚。八十枚。七十枚。足して三百七十枚。


三度足した。三度とも同じだった。右手の指が、数字の桁を勝手に折っていった。


「借用証は、何本ある」


「四本でございます。すべて、ヴァルト商会からの借り入れで」


「ヴァルト」


「隣国ハルトマン連合の大商会です。先代様の頃から、領の金回りを支えていただいておりました」


支えていた、にしては条件が重い。四本を引き寄せて、利率の欄を確かめる。


年に二割。半年ごとに、四本それぞれへ利息を払う。


「半年分の利息が、合わせて三百七十枚」


「左様でございます」


「それに元本を二百三十枚足して、明朝六百枚か」


「はい。元本は、少しずつお返しする約束で」


約束を破れば、どうなる。書面には、その答えも書いてあるはずだ。


「担保は」


老人は答えなかった。床の石目を見ている。


「オズワルド」


「……領の徴税権と、直轄地の収益でございます」


「年にいくらだ」


「おおよそ、三千枚」


「領の収入すべてを、抵当に入れたのか」


「先代様が、お決めになったことで」


老人の声が、石の壁に吸われて小さくなる。燭台の蝋が垂れ、机の端に白い滴が固まっていた。


先代。仮に、この体の父親ということにしておく。


会ったこともない男の署名ひとつで、領の収入が丸ごと質に入っている。印も日付も揃っていた。書面として、文句のつけようがない。


「取られたら、領は終わるな」


「はい」


「では、取られないように数字を揃える」


羊皮紙の裏の計算を、老人に向けた。


「明朝の六百枚に対して、手元は二百枚。足りないのは四百枚のはずだった」


「はい。ですから、閣下がお目覚めになるまで、どこへ頭を下げに行くべきかと」


「だが、払う必要のなかった金が、三百七十枚ある」


老人の口が、半分開いた。


「過払い、でございますか」


「二重に払った分だ。これを今回の支払いに充てれば、足りないのは三十枚で済む」


「しかし、ヴァルト商会が、そのような理屈を」


「認めさせる。受取証の原本を、三年分、四本全部、今夜のうちに揃えてくれ」


「全部、でございますか」


「全部だ。写しも取る。債権者の使いが来る前に、こちらの数字を固めておく」


老人が立ち上がろうとして、よろめいた。支えようと手を伸ばすと、机の端より先に、その腕へ届いた。


(腕も、長い)


袖の中の腕は、骨の形が分かるほど細かった。


「どうした」


「いえ。閣下は、お変わりになられました」


「そうか」


「以前は帳簿をお読みになる前に、まず私に尋ねられました。『どうだ、オズ』と」


「今は」


「先に、数字をお読みになります」


言い返す材料が、手元になかった。俺は羊皮紙の裏を、老人のほうへ押しやった。


「どうだ、オズ」


「は」


「この計算、合っているか」


老人は目を瞬いて、数字を追った。唇が動く。百二十、百、八十、七十。


「……合っております」


「なら、いい」


老人は深く頭を下げ、扉の外へ人を呼びに行った。声が廊下の先で途切れる。衛兵が二人、走る足音がした。


部屋に一人になって、立ってみた。椅子から腰を上げると、机が低い。天井の梁が、思っていたより近い。


壁の燭台の脇に、磨いた真鍮の皿が掛けてあった。顔を寄せる。髭の濃い、目の下に隈のある男が、こちらを見ていた。


右手を上げる。皿の中の男も、右手を上げた。


認めるしかない。納得は、していない。仮勘定に入れておく。


三十八歳、と聞いている。俺より四つ若い。四つ若い男の顔で、六百枚の期限を迎える。


(せめて、寝不足の顔ではないほうがよかった)


寝不足の顔のまま、椅子に戻った。



■4.


扉が叩かれ、下女が盆を運んできた。黒いパンと、豆の汁物。


「閣下。家宰様が、何か召し上がっていただくようにと」


「ありがとう」


豆の汁物は塩が薄く、湯気ばかりが濃かった。盆を置いた下女の背後、壁の高い位置に、握り拳ほどの灰色の石を嵌めた灯具が掛かっていた。光はない。


「あれは」


「魔灯でございます。魔石が切れて、半年になります。蝋燭のほうが安うございますので」


「安いのか」


「魔石ひとつの値で、蝋燭が冬じゅう灯せます」


魔法のある世界らしい。今になって知った。数字しか見ていなかった。


三日ぶりの食事らしい。椀を持ったまま、受取証の束を片手でめくった。


豆が羊皮紙に落ちそうになる。椀を遠ざけて、束を近づけた。


三日分の飯を一度に入れる胃は、この体にもなかった。半分で、椀を置く。やがて老人が、衛兵と一緒に木箱を抱えて戻った。


「三年分の受取証でございます。写しは、私が」


「俺が取る。あなたは、束を日付順に分けてくれ」


老人は羽ペンを差し出しかけて、引っ込めた。


「閣下が、写しを」


「そのほうが速い」


羽ペンの軸は、握った瞬間に指の腹へ馴染んだ。書いてみると、本当に速かった。この手は、俺の頭より先に字を知っている。


老人が横で束を分けながら、二度、手を止めてこちらを見た。何も言わなかった。



■5.


受取証の束は、夜半すぎに揃った。日付順に並べ直す。半年ごとに四本、三年分で二十四回の支払い。


受取証は、二十八枚あった。二十四回のうち、二枚ある回が四回。それ以外は、一回につき一枚。


(事故なら、もっとばらける)


決まった年の、決まった借用証でだけ起きている。一枚目はどれも同じ名前の署名で、明朝来る代理人の名と一致した。


二枚目だけ、別人の字だった。四枚とも、同じ手で書いてある。燭台の蝋燭が、二本目の半ばまで減っている。


芯を直そうと手を伸ばして、火に指が届きすぎた。


「っ」


この体の腕の長さを、まだ覚えきれていない。指を振って、受取証に戻る。


「家宰」


扉の脇で控えていた老人が、顔を上げた。


「はい」


「明朝の使いは、何と言ったな」


「ブラント殿でございます。ヴァルト商会の代理人で、三年前から、ずっと同じ方が」


「その男に、聞きたいことができた」


「過払いの件で、ございますか」


「それもある。だが先に、聞くことがある」


二枚目の一枚を、燭台の明かりにかざした。


「この字を書いたのが誰か、代理人は知っているはずだ」


払わなくてよかった金が、三百七十枚。足りないのは、三十枚。三十枚より、この署名のほうが気になって眠れない。


数字が合わないと寝られない性分は、体が変わっても治らなかったらしい。窓の外で、獣が吠えた。


低く、長い。犬の声ではなかった。


油紙の窓を少し開ける。領都の屋根の向こうに、黒い森の縁が見えた。丘の頂に石柱が立ち、先端が弱い青に光っている。光は、途切れそうに瞬いた。


「結界石でございます」


扉の脇で、オズワルドが言った。


「あの森から、魔物が参ります。石が光っている間は、領都に入れません」


「瞬いているが」


「魔石が薄くなっております。入れ替える金が、ございませんで」


「いつまで保つ」


「あと二十日ほどかと」


二十日。この領は、返済の期限より先に、守る期限が切れる。払う金と、守る金は、同じ財布から出る。


夜明けまで、あと一刻。

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