第3話 動かない残高
■1.
午後になって、倉庫へ向かった。台所の煙突から、薪の煙が低く流れている。昼の豆を煮た匂いが、まだ中庭に残っていた。
中庭を横切ると、井戸端の衛兵が二人、揃って背を伸ばした。
「閣下が、倉庫へ」
「午前に商会の代理人を帰して、午後は麦か」
「数まで握るおつもりだ」
聞こえている。握るつもりはない。数えたいだけだ。
訂正して回る時間がないので、歩き続けた。
歩幅が広い。中庭を、前の体の覚えより少ない歩数で渡った。この体で歩いた日は、まだ一日しかない。
■2.
裏口を抜けると、足元が砂利から踏み固めた土に変わる。荷車の轍が、浅く何本も重なっていた。
領主館の裏手に、石造りの長い建物がある。屋根は低く、壁は厚い。窓は、人の頭が通らない幅しかない。
鍵を開けるのは、オズワルドの役目だった。腰の鉄輪に、同じ形の鍵が七本ついている。
「倉庫番のゲルトは」
「今日は、休みをいただいております。親が病で」
「そうか」
鍵が回る。蝶番が長く軋んだ。
扉が開くと、乾いた麦の匂いが押し寄せた。粉っぽい埃も混じって、喉の奥がむず痒い。
中は暗い。小窓から差す光が、床に細い筋を引いている。筋の中を、埃が静かに沈んでいった。麻袋が奥へ向かって、天井近くまで積んであった。
「これが、備蓄か」
「はい。帳簿の上では、三千袋でございます」
「全部が領民の食糧、というわけではあるまい」
「仰るとおりです。凶作の年に、領民へ貸し付けるための麦で。民の冬を丸ごと賄える量ではございません」
老人は、そこで言い淀んだ。
「ですが、今年は夏が冷えて、実りが悪うございました。この備蓄がなければ、冬を越せない村がいくつか出ます」
「いくつか」
「トマ村と、その隣の二つほどで」
老人の指が、北の小窓のほうを指した。窓の向こうは、ただ曇った空だった。
袋の口は、荒い麻縄で縛られている。結び目の癖が、袋ごとに少しずつ違った。
袋には、炭で数字が書いてある。入れた年の印らしい。手前の袋は去年の数字で、奥の袋の数字は暗くて読めない。
一番手前の袋に手をかけた。試しに持ち上げる。持ち上がった。
(……軽い)
軽いはずがない。麦の袋は、一つで子供ひとりぶんの重さがある。
前の体なら、腰をやっていた。この体は、袋を胸の高さまで上げて、まだ余裕がある。
「閣下、お腰に」
「大丈夫だ。……大丈夫らしい」
腰より先に、腕のほうが驚いている。
袋を戻した。中身は固く詰まっている。中身はある。何袋あるかは、別の話だ。
「在庫簿を見せてくれ」
入口の脇に、小さな帳場があった。机の上に、厚い台帳が一冊。表紙の革は、手の脂で角だけ黒く光っている。
机の隅に、蝋燭の燃え残りと、麦を量る升が一つ。升の縁が、片側だけ磨り減っている。床の隅に、鼠の糞が散っていた。
「鼠が、出ます」
「鼠は、帳簿に署名しない」
老人が、意味を測りかねた顔をした。俺も、自分で言ってから少し後悔した。
開く。入庫、出庫、残高の三列。日付と数量と、署名。
罫線は、定規を当てた正確さで真っ直ぐだった。几帳面な人間が作った様式だけが、きれいに残っている。
最初の頁から、順にめくった。残高の列を、指で追う。
三千。三千。三千。
指が止まる。
「オズワルド」
「は」
「去年の秋に、新しい麦を入れたな」
「はい。収穫のあとに、四百袋ほど」
「出庫は」
「冬に、貸付を二百袋ほど」
「では入庫のあとの残高は、三千四百袋。貸付のあとは、三千二百袋でなければおかしい」
老人が台帳を覗き込んだ。
入庫の欄に、四百。出庫の欄に、二百。その次の行の残高は、三千。
残高の列は、十四か月、ずっと三千のままだった。
「……動いておりません」
「ああ」
「数字を、書き写しただけに見えます」
「見えるな」
残高が動かない帳簿は、数えていない帳簿だ。経理の世界では、ここから疑う。次に、筆跡を見た。
入庫と出庫の署名は、丸みのある、律儀な字だ。去年の収穫祭の翌月から、字が変わっている。払いが短く、行の末尾が右に流れる。
「この署名は」
「前半が、前の倉庫番のものです。後半は、ゲルトの字でございます」
「いつ交代した」
「去年の暮れです。前の者が腰を痛めまして」
「では、残高の列は誰が書いている」
「それは、毎月末に、出納のマルコが……」
老人が口をつぐんだ。
「マルコ」
「出納役でございます。金庫と、帳簿の整理を担当しております」
「倉庫の数を、実際に数えたことは」
「ございません」
即答だった。老人は、自分の答えに自分で目を瞬いた。
「帳簿を信じておりました。数える、という発想がなかったのです」
「普通は、そうだ」
俺は台帳を閉じた。
「だが、数えないと、ないものがあるかどうかも分からない。潰れる会社の帳簿は、たいてい残高がきれいなんだ」
「は」
「いや、こちらの話だ」
老人は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。聞かないでいてくれるのが、今は助かる。
倉庫の奥まで歩いた。袋の山の裏側は、通路から見えない。
入口から見える面だけ数えた。縦に八段、横に十二列。九十六袋。
八段目を数えようと首を反らしすぎて、首の骨が鳴った。この体も、天井を見上げるのは苦手だ。奥行きが何列あるかは、登らなければ分からない。
麦の山の脇に、鉄の箱が三つ並んでいた。錠が二重にかかっている。
「あちらは」
「魔石の箱でございます。結界石と、街灯に使う分の」
「中身は」
「先月の入れ替えで、結界石用の最後の一つを使いました。残りは屑石ばかりで」
屑石をひとつ摘まみ出す。灰色で、爪の先ほどしかない。光らない。
指の腹で転がすと、ただの小石より少し軽く、冷たかった。
「魔力を使い切った石でございます。捨てるのも惜しくて」
「帳簿には」
「ございません」
数えていない資産が、またひとつ増えた。資産と呼べるかは、別の話だ。
一番奥の壁際で、足が止まった。床の石に、荷車の轍が残っている。倉庫の中まで車を入れる。出すときにしか、使わない。
轍の幅を、靴で測った。靴の寸法が俺のものではないので、測った意味は薄かった。
「オズワルド。奥まで荷車を入れることは」
「貸付のときに。冬の二百袋も、そうして運び出しました」
「それだけか」
「私の知る限りは」
知る限り、という言葉を頭の中に置いた。
入口へ戻ると、老人が帳場の机に手を置いて立っていた。さっきより、肩が落ちている。差し込む光が、白い髪の縁だけを薄く照らしていた。
「どうした」
「閣下。お話ししなければならないことが」
「話してくれ」
「閣下は、倒れる前の晩、この倉庫においででした」
俺は老人を見た。
「覚えておられませんか」
「……覚えていない」
嘘ではない。この体の三日前を、俺は知らない。老人は、自分の手のひらを見つめて続けた。
「夜遅くに、灯りを持って、お一人で。台帳を何枚も並べて、手を光らせておいででした。そして仰いました。『オズ、数字がおかしい』と」
「手を」
「はい。私に分かるのは、見えたことだけでございます」
「何が、おかしいと」
「それ以上はお教えくださいませんでした。翌朝までに確かめる、とだけ」
翌朝、この体は倒れた。三日間、目を覚まさなかった。
起きたら、中身が俺だった、ということになる。他に説明がつかない。
「医師は、何と」
「疲労だろう、と。表向きは」
「表向き」
「医師は、別のことを疑っておりました。私が、口外無用と頼みました」
老人は、そこで唇を結んだ。
「閣下がお目覚めになった今、申し上げるべきかどうか」
「聞かなかったことにする。今日のところは」
「……ありがとうございます」
倉庫の外は、日が傾き始めていた。風が冷たい。
「オズワルド」
「は」
「ガルドは、何を数えようとしていたんだろうな」
老人の顔が止まった。
「閣下?」
「……俺は、何を数えようとしていたんだろうな、だ。言い間違えた」
「お疲れでございます」
「かもしれん」
三日寝ていた男の言い間違いだ。老人はそれで納得してくれた。顔は、納得していなかった。
「ゲルトが戻ったら、数えさせたい。人払いをして、全部」
「夜に、でございますか」
「昼に数えれば、見せるために並べ直せる。夜に、予告なしでやる。日取りは俺が決める」
「承知いたしました」
「それまで、この話は誰にも言うな。マルコにも」
「はい」
倉庫の扉に、鍵がかかる。鉄の音が石の壁に響いた。
七本の鍵のうち、どれがどの扉の鍵なのか。老人は見もせずに選んで回した。
俺は残高の列を、頭の中でもう一度なぞった。三千、三千、三千。きれいすぎる。
経理課長だった頃、監査の前に、同じ数字の並びを見たことがある。何が見つかったかは、思い出したくない。
「数えさせてくれ」
口に出すと、老人が鍵の束を握り直した。
「鍵は、七本とも私が持っております。ゲルトは朝に受け取り、夕に返します」
「返さなかった夕が、一度もないか」
「それは……」
「それも、数える」
老人は返事をしなかった。鉄輪が、腰で一度鳴った。




