第2話 受付嬢になっていた
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ゴシゴシ、ゴシゴシ。
一心不乱にトイレブラシで便器を擦る。
トイレ掃除は高校を卒業してから、欠かしたことがない日課だ。
最初に配属された浅草店の店長はスピリチュアルに首っ丈だったので、縁起のいい習慣は片っ端から仕込まれた。
水で満たされたバケツの中に、トイレブラシを突っ込む。
現代日本のトイレは樹脂と陶器で仕立てられていたが、この世界のトイレは全てが陶器で出来ている。
しかも、工場で大量生産された物じゃなくて、匠が一つ一つ手作りしたものだ。
水洗トイレではないらしいこのトイレは、浄化槽にたっぷりと溜めたスライムで汚物を処理しているらしい。
だから、便器の奥からニョロリと緑色の物体が現れても決して驚いてはいけな──気持ち悪っ!?
奥から現れた左右に揺れる軟体物体に怖気が走った私は、トイレブラシを突っ込んだバケツを引っ掴んで個室から出た。
慌ただしく出てきた私は、持ち上げたバケツを手洗い場に置く。
真正面にある鏡は、原宿あたりでフリフリの服を着て闊歩していそうな女の子を映し出していた。
腰まである桃色の髪は、癖一つなく真っ直ぐに伸ばされていて。
姫カットのような前髪が縁取る色の白い顔には、大きな緑色の眼と、主張の少ない鼻が付いている。
この前見た黒鎧の彼もゲームアバターみたいな非現実的な容姿をしていたが、この体も実在しているとは思えないくらいに摩訶不思議な色合いをしている。
私の世界ではかなりの美少女に分類されそうな容姿をしているけど、この世界では並のレベルに位置するらしい。
そんなことをこの前、兜を被ったお客さんが言ってた。
まあ、容姿のレベルがいくつだろうがどうでもいい。
そんなことよりも、私にはもっとどうにかして欲しい事柄がある。
「流石に三日経っても夢の中に居続けるっていうのは、可笑しいよね」
鏡を眺めるのもそこそこに、持っていたバケツをひっくり返す。
バケツの水が洗い場の排水溝に吸い込まれていく様を見下ろしつつ、重たい溜息を吐いた。
日本じゃない世界で、見知らぬ体で起きてしまった私は、もはやこの異常事態を夢として扱えなくなりつつあった。
幸せそうにお酒をたらふく飲んでいたアチラの私は、今頃どうなっているのだろう。
もしかしたら、私とは違う別の意識が体を動かして、店に出勤していたりして。
どちらにせよ、赤坂の店がつつがなく回っていたらいい。
あの店には店長の私がいなくても、店を回せる営業マンが何人かいる。
だから、私が過剰に店のことを心配する必要は無いのだけども。
──あの晩に返信したお客さんの部屋がどうなったのかが、すごく気になるんだよなぁ。
◆◇◇
「よう、クレア嬢。今日も元気にトイレ掃除か」
「千客万来は、綺麗な水周りからと言いますので」
定位置である窓口の席に座った所で、背中越しに耳障りのいい低音が掛かった。
首だけで振り返ると、視線の先にはワイシャツの折れた襟をそのままにしている男がいる。
しかも、スラックスにも皺が幾つも入っている有様だ。
こんなにも服装が乱れまくっているのに、この男が無罪放免とばかりにのさばっているのは、そんじょそこらにはいないイケメンだからだろう。
パーマ掛かった濃紺の髪だけでも目を惹くのに、滴るような色気が醸し出されているタレ目、高い鼻筋、口角の上がった薄い唇という欲張りセット具合。
面食いの母親が見たら、AIに写真検索を依頼して、プロフィールや出演作を漁っていることだろう。
──残念ながら、彼は人気俳優ではなく、この体の先輩にあたる人だけど。
しかも、恐ろしいことに教育係らしい。
ウチの会社も万年人手不足だったが、まだ彼のような乱れた人間を指導係に当たらせるようなレベルではなかった。
「冒険者ギルドが千客万来っていうのもなぁ。専属の冒険者なんて、とうとう先月で30を切ったし」
くわぁと大きな欠伸を噛み締めた先輩は、私の横にある椅子に腰かける。
刹那、ふわっと鼻先を酒精が掠めた。
自分の目が、いよいよめいっぱい見開かれるのが分かる。
この男、服装だけに飽き足らず、どうやら酒が抜けきらない状態で出勤しているらしい。
幸いなことに車を扱わない業務だから良いけど、これが元の世界の仕事だったら一発アウトだった。
出来るだけ、怠惰の限りを尽くしている先輩の方に顔を向けないようにして世間話を続ける。
「依頼が増えたら、仕事があるからって専属になってくれる人も増えるかもしれないじゃないですか」
「なるほど。先ずは冒険者のお目当てである依頼の種類を増やすことからってことな。三日前に知恵熱で倒れた新人にしては良い着眼点だな」
「ありがとうございます」
だらしなさグランプリのチャンピオン候補に褒められても何一つ嬉しくない。
今日も一向に先輩の服装が手直しされる様子がないまま、ポーンポーンと壁に掛けられている時計が始業を告げた。
チャイムがフロア内に響いたのと同時に、腰掛けているカウンターの動線上にある観音扉が開いていく。
逆光になっている扉の隙間から現れたのは、物々しい格好をしている冒険者達だ。
彼等はそれぞれに仏頂面を引っ提げて、ギルド内へと入ってくる。
一目散に私がいるカウンターに向かってくる人もいれば、依頼票が貼られている掲示板へと寄っていく人もいて、始業前までは閑散としていた部屋の中が一気に人で溢れ返った。
私はこちらへと一目散に向かってくるガタイの良いおじ様へと、浮かべていた愛想笑いを深める。
この男達が『部屋を探して欲しくて』と言ってくれたら、どれだけ良かっただろう。
このフロアが、赤坂にある自分の店舗で。
この体が、22年間で見慣れきってしまった手入れの簡単な黒髪の女のものであれば、どれほど。
「よぉ、受付の嬢ちゃん。クエストの完了報告を受け付けてくれ。」
「承知しました。手続きを行いますので、依頼票と冒険者証をご提出ください」
サノヴィア冒険者ギルドの受付嬢。
それがこのヘンテコリンな世界での私の仕事だ。




