4-8 継承
……絵美は、ずっしりと重い墨色のキーボードを抱きしめた。
それは、父から娘へ、伝説が継承された瞬間だった。
「……重いわね。でも、これくらい重くないと、パパを追い越す時の『錨』にならないもの」
絵美は顔を上げ、かつてないほど鋭い、だが真っ直ぐな瞳で誠司を見つめた。
その視界の端に、再び新たな警告が灯る。
だが、もう彼女の指は震えていなかった。
ジュークボックスから流れるジャズの旋律が、不意に激しさを増す。
ウッドベースの低音が床を揺らし、絵美の胸の鼓動を急き立てる。
誠司はサングラスをかけ直し、カウンターの向こう側――「戦場」へと視線を戻した。
「誠司いや俺は、いつも言っていた。
ハッカーの命は、画面の中ではなく指先にある。
指が迷えば、それは思考が死んだ証拠だとな」
誠司の声が、熱を帯びたコーヒーの湯気のように絵美を包み込む。
「このHHKBは、俺と親友の篤史が、八咫烏の黎明期に共に組み上げた一号機だ。
あいつがハードウェアを作り、俺がその論理を現実のパケットとして叩き込んだ。
この無刻印の黒は、俺が好んだ『沈黙の象徴』なんだ」
マスター――誠司。
絵美の記憶の中では、いつも書斎で背中を丸め、優しい微笑みを浮かべていた人。
その父が、かつてこの「鉄の塊」のように重い機材を使い、世界を揺るがす戦いに身を投じていた。
絵美は抱きしめたキーボードの冷たさの中に、時を超えて流れ込んでくる父たちの熱量を感じた。
『……お嬢様。再起動完了。
ARレンズを介さない、あなたの神経電位の異常な活性化を確認しました』
バックヤードのセバスが、驚愕を含んだ電子音で囁く。
『セバスの演算補正を必要としない、純粋な反射速度。
……お嬢様、あなたは今、論理を視覚ではなく、触覚で再定義しています。
これは……記録にある「大天使」の全盛期と同質の波形です』
「来るわよ」
優希が短く警告を発した。
店の外、真夏の夜の闇を切り裂いて、複数の高出力なスキャン信号が八咫烏の看板に突き刺さる。
第二波。
今度は先ほどのスカウターのような「野犬」ではない。
組織が誇る、音もなく対象を絞め殺す「処刑用プログラム(ギロチン)」の群れだ。
絵美は、墨色のキーボードを再びカウンターへ据え置いた。
レンズは外したままだ。
視界は薄暗い。
だが、ホームポジションに置いた指先からは、回線を通じて押し寄せる敵の殺気が、まるで「水の流れ」のように伝わってくる。
「パパ。
……いいえ、マスター」
絵美は深く、静かな呼吸を一つ吐いた。
「三番テーブル(敵の侵入口)の処理、私に任せて。
……コーヒーが冷める前に、終わらせるから」
誠司は一瞬だけ、その逞しく成長した娘の横顔を見つめ、短く応えた。
「……五分だ。
それを過ぎれば、コーヒーの香りが死ぬ」
絵美の指が、無刻印の闇の上で爆発した。
トツ、トツ、トトッ――。
それはもはやタイピング音ではない。
熟練のドラマーが刻むリズムのように、あるいは精密な時計の歯車が噛み合う音のように、店内のジャズと見事に調和していく。
だが、そのリズムが極限に達した瞬間、絵美の脳内で「何か」が弾けた。
ARレンズを外しているはずなのに、視界の裏側に、剥き出しのバイナリの奔流が焼き付く。
『……警告。
お嬢様、脳波に異常な同期を確認。
セバスの抑制層を突破するプロセス……“EMI”が起動を要請しています』
(……来なさい、EMI。
パパたちの「重さ」に、私の「牙」を混ぜてあげる)
絵美の瞳から、少女らしい迷いが消え、凍てつくような無機質な光が宿る。
それは、バックヤードに隠されたサーバーが発する熱が、絵美の神経系と直接融解したかのような変貌だった。
文字を見ない。
情報を追わない。
ただ、指の腹に伝わる「論理の摩擦」を、EMIがミリ秒単位で「脆弱性」へと変換していく。
敵の「ギロチン」が絵美の防壁に触れる瞬間、彼女はそれを避けるのではなく、あえて打鍵の「深さ」で受け止め、EMIの毒をその刃に塗りつけた。
「ここ……ッ!」
彼女の指が、重厚なスペースキーを力強く押し下げた。
その瞬間、店内のスピーカーから流れていたジャズが一瞬だけ不協和音を奏で、通信端末から放たれていた赤色の警告灯が、弾けるように消滅した。
逆探知。
絵美が放った無言の一撃は、回線を逆流し、街のどこかに潜んでいた襲撃者たちの端末を、一瞬で物理的な焼損へと追い込んだはずだ。
それも、ただの破壊ではない。
EMIが仕込んだ「自己増殖型の偽装パケット」が、敵のサーバー群を内部から共食いさせ、物理的な「沈黙」を強制したのだ。
再び訪れた静寂。
優希が、その絵美の豹変を目の当たりにして、息を呑んだ。
「……信じられない。
誠司の『精密さ』と、篤史の『力強さ』。
その両方を、この短時間で自分のリズムに混ぜ合わせるなんて。
……いえ、それだけじゃないわ。
この娘、誠司のデバイス“EMI”を、この古いキーボードに飼い慣らさせたの?」
絵美はゆっくりと指を離した。
指先からは、激しい演算の代償として陽炎のような熱が立ち昇っている。
EMIの冷徹な感覚がゆっくりと退き、代わりに父が淹れたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
「……三分四十秒。
合格点だ」
誠司が、新しいカップを手に取る。
その背中は、もはや娘を庇うための盾ではなく、共に戦う「相棒」を信頼する、戦士の背中だった。
絵美は、自分の手の中に残る、あの重い打鍵の余韻を噛み締める。
“継承”は終わった。
だが、それは同時に、逃げ場のない「闇の住人」としての人生が始まったことも意味していた。
「さあ……次は、誰が来るのかしら」
絵美は、もう一度墨色のキーボードに手を触れた。
その黒い闇は、今やEMIという新たな魂を宿し、静かに、しかし力強く脈打っていた。
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