4-9 二代目ノーフェイス
静寂は長くは続かなかった。
三番テーブルの「侵入口」を焼き切った直後、店の周囲を囲む空気そのものが、電子的な「うなり」を上げ始めた。
「……第三波。
本命のお出ましね」
優希がカウンターの下から、見たこともない多層防壁展開用のデコーダーを取り出した。
「白夜の残滓が、ディープウェブ中のボットネットを強奪して、この店に全パケットを叩きつけるつもりよ。
数で圧殺しに来るわ」
「数で来るなら、こちらも『質』で応じるまでだ」
誠司が、ゆっくりと店の奥から古いアタッシュケースを取り出してきた。
その中には、絵美が使っているもの同じフルフェイスサングラス型デバイス「EMI」が鎮座していた。
「パパ……。
それが、EMIの本尊なの?」
「ああ。
俺が『大天使』として、数多の亡霊を葬ってきた翼の片割れだ。
……絵美、セバスを起動しろ。
お前が自ら鍛え上げた『速さ』と、俺が篤史から預かった『重さ』。
どちらが欠けても、この波は越えられない」
「了解……! セバス、再装着! リミッター全解除、全リソースを誠司のEMIとの同期に回して!」
『……了解しました、お嬢様。
これより、マスターのEMIとの「親子鷹」プロトコルを開始します。
……演算解像度、極限まで上昇!』
絵美が右目にレンズを叩き込む。
瞬時にARコンソールが爆発的に展開され、白熱灯の薄暗い店内が、高純度の青い情報空間へと塗り替えられた。
同時に、誠司がオリジナルのEMIを接続し、無刻印のHHKBに指をかけた。
その瞬間、彼のサングラスの奥で、かつての伝説のハッカー「ノーフェイス」の冷徹な瞳が、怪物のような光を宿した。
親子二人の指が、二つの墨色のキーボードの上で舞う。
トトトトトッ……!
二人の打鍵音は完全に同期し、一つの巨大な「論理の城壁」を構築していく。
店外からの攻撃は凄まじかった。
数千、数万の攻撃パケットが津波となって押し寄せるが、絵美のセバスがその「兆候」をコンマ数秒前に予測し、誠司のEMIがその「急所」を一撃で粉砕していく。
「予測は私がやる! パパ、十時方向のポートに『毒』を流し込んで!」
「わかっている。……三、二、一、今だ!」
二人のエンターキーが、同時に底を打つ。
トツ、という重厚な和音が響いた瞬間、店を囲んでいた電子のうなりが、悲鳴のようなノイズに変わった。
「……ターゲットの全ボットネット、無力化。
……さらに、攻撃元である白夜の残存サーバーの物理的な自己崩壊を確認しました」
セバスの声が、誇らしげに脳内に響く。
すべての警告灯が消え、再び平和なジャズの旋律が戻ってきた。
誠司はゆっくりとEMIの接続を解除し、深く溜息をついた。
その表情には、戦士としての厳しさと、娘の成長を認めた「相棒」としての安堵が混ざり合っていた。
「……お見事。
まさか、あの『大天使』と、その血を引く『二代目』が並んでタイピングする姿を拝めるなんてね」
優希が感嘆の声を漏らし、コートの襟を正した。
絵美は、自分の手を見つめた。
レンズ越しに見える世界と、レンズを外して感じた現実。
今、その両方が、この墨色のキーボードを通じて一つに繋がっている。
「パパ……。
私、もう『お嬢様』じゃないわ」
絵美はレンズを外し、真っ直ぐに父を見つめた。
「今日から、私がこの店の『裏の門番』……二代目ノーフェイスを襲名する。
……文句ないわよね、マスター?」
誠司は一瞬だけ、娘の頭に手を置こうとして、それを引っ込めた。
代わりに、彼は新しく淹れたてのコーヒーを、彼女の前に差し出した。
「……五分五秒だ。
少し香りが飛んだが……味は悪くないはずだ」
終わりを告げるドアベルの音が、勝利の鐘のように夜の街へと響き渡った。
優希が満足げに店を去り、再び訪れた静寂。
絵美は差し出されたコーヒーを啜りながら、カウンターに並んだ二つの「墨色のキーボード」を見つめた。
一方は、数多の戦場を潜り抜けた父の戦友。
一方は、今日、新たな伝説を刻み始めた自分の相棒。
窓の外、夜の闇はまだ深い。
だが、そこにはもう「見えない怪物」への恐怖はなかった。
「ねえ、パパ。明日の開店準備は何時から?」
誠司はサングラスを拭き上げ、棚へと戻すと、ほんの少しだけ口角を上げた。
それは「大天使」でも「ノーフェイス」でもない、ただの父親の、穏やかな微笑みだった。
「……六時だ。
遅刻したら、二代目の座は剥奪だぞ」
「了解、マスター。
……あ、セバス。
今の会話、アーカイブしておいて。
パパのデレた顔、一生モノだから」
『……了解しました、お嬢様。
……いえ、“二代目”。
ログを永久保存領域に格納完了。
……明日のアラームは五時半に設定しますね』
絵美はクスクスと笑いながら、カバンを肩にかけた。
デジタルな光芒と、アナログなコーヒーの苦味。
その両方を抱えたまま、彼女は軽やかな足取りで夜の街へと踏み出す。
背後にある『琥珀色の聖域』を守る、新たな翼の持ち主として。
◆
その頃、街の裏路地の廃ビルに潜んでいた白夜の残党たちは、絶望の淵に突き落とされていた。
モニターに映し出されるのは、全ボットネットの壊滅ログと、彼らのサーバーが内部から焼損した証拠。
「……馬鹿な。
あの『大天使』が、ここまで強くなっているだと?!」
リーダー格の男が、血走った目で叫んだ。
「いえ、リーダー。
ログを解析した結果……どうやら、攻撃の中心は『別のアドレス』です」
隣のハッカーが、震える指でログを指し示す。
そこに記されていたのは、白夜が知り得るどの「八咫烏」のコードとも異なる、しかし恐ろしいほどの破壊力と、まるで稚魚が群れを成すように複雑に増殖するパケットの痕跡。
「これは……我々が標的とした『ノーフェイス(大天使)』が使っていた、アナログの極致のような打鍵術の、さらに奥に隠されていたものだ。
まるで……生まれたばかりの、しかし飢えた怪物のような」
彼らが追い求めていた「大天使」は、確かにそこにいた。
だが、その守護者の背後には、彼らが予期せぬ、遥かに苛烈で、予測不能な「黒い翼」が広がり始めていたのだ。
「……まさか。
二人目……」
リーダーの男は、冷や汗を流しながら、窓の外の夜空を見上げた。
その暗闇の奥で、無数の電子の牙が、新たな獲物を求めて鈍く光っているような気がした。
――第四部 完――そして、Fin.
黄昏のノーフェイスは、これで完結です。
次回作は、現在執筆中です。
次回作が完結まで出来たら、またお会いしましょう。
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