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4-7 再会

 絵美がバックヤードでエプロンを外し、カバンの中のセバスを「スタンバイ」から「ポータブル」へ切り替えていた、その時だった。


 店の入り口で、カラン、というカウベルの音が乾いた夜の空気を震わせた。


 すでに『Closed』の札は出している。


 店内の照明も落とされ、カウンターを照らす僅かな白熱灯だけが、夜の帳の中で孤島のように浮かんでいる。


 誠司が、顔を上げずに冷徹な声を投げた。


「……今日はもう仕舞いだ。

 帰ってくれ。

 あいにく、夜の客に振る舞う愛想は持ち合わせていない」


「相変わらずね、マスター。

 ……それとも、今は『大天使』と呼んだ方がいいかしら? それとも――神宮誠司、と?」


 その声を聞いた瞬間、絵美の背中に電撃のような予感が走った。


 バックヤードの入り口からそっとフロアを覗くと、そこには一人の女性が立っていた。


 夜の闇をそのまま裁断したような黒いロングコート。


 彼女が歩くたび、都会的な香水の香りと、それに相反するような、硝煙の匂いすら連想させる乾いた緊張感がフロアに広がっていく。


「……優希か」


 誠司の手が止まった。


 サングラスを外し、その名を呼ぶ彼の声には、先ほど絵美に向けられた厳格さとは違う、共に地獄を歩んだ戦友を労うような、複雑な響きがあった。


「リトル・フォックス……!」


 絵美は思わず声を漏らしていた。


 かつて父を支え、共に「白夜」の実行部隊を半壊させた伝説のハッカー、優希。


 彼女は帽子を脱ぎ、艶やかな黒髪を揺らしてカウンターに腰を下ろすと、バックヤードに隠れている絵美の視線を「スキャン」するように、その鋭い瞳を向けた。


「出てきたらどう、絵美ちゃん。

 ……その目のレンズ、いい調整ね。

 篤史さんが徹夜で基板を焼いたのも頷ける。

 でも、マスターの言う通りよ。

 あまり『光』ばかり追っていると、本当の闇に目が慣れなくなるわ」


 絵美は観念してフロアへと足を踏み出した。


 伝説のハッカーを前にして、右目のARレンズが勝手に情報の解析を始めようとする。


 だが、セバスの警告音が脳を揺さぶった。


『……警告。

 対象の周囲、半径三メートル。

 強力な位相反転型のジャミングを確認。

 個体識別、生体パラメータの読み取り、すべて不可能です。

 お嬢様、この女性……人間そのものが「暗号化」されています』


 優希は、絵美の戸惑いを楽しむように薄く微笑むと、カウンターの上に一つの黒いチップを滑らせた。


 それは、物理的な高熱で焼かれ、無残にひしゃげたストレージ・メディアだった。


「……白夜の『残滓』が、動き出したわ。

 今度はただのプログラムじゃない。

 八年前、私たちが焼き切ったはずのメインサーバーの断片が、ディープウェブの底で『自己修復』を完了させた」


 店内の空気が、一瞬でマイナス百度まで凍りついた。


 誠司がそのチップを手に取り、コンタクト型レンズARを装着した右目で一瞥する。


 彼の眉間が、これまで見たことがないほど深く険しく寄った。


「これは……『天使狩り(ヘブンズ・ドロップ)』のプロトコルか」


「ええ。

 そいつは今、あなたの位階コード――『大天使』のアクセスキーをターゲットにして広域スキャンを開始している。

 今日、この店を嗅ぎ回った野良スカウターやハイエナは、ただの『触覚』に過ぎない。

 本体はもっと巨大で、もっと冷徹よ」


 優希の視線が、再び絵美に向けられた。


 その瞳には、かつての幼なじみとしての優しさと、一人の戦士としての冷徹な品定めが混在している。


「絵美ちゃん。

 あなたが数日前、不用心に投げたクエリが、眠っていた怪物を目覚めさせたの。

 ……パパに会いたい、その一心が、パパの首を絞める鎖になった。

 わかる?」


 絵美は言葉を失った。


 父が一人で背負ってきた静寂を、自分の傲慢が壊してしまったのだ。


「マスター。

 ……『大天使』の翼は、もう隠しきれない。

 この検問所を、彼らは『扉』だと思い始めている。

 今夜にでも、次の波が来るわ。

 今度はガテン系のハイエナじゃない。

 八咫烏の最高機密を、文字通り『剥ぎ取りに来る』プロたちが」


 誠司は沈黙のまま、磨き終えたデミタスカップを棚へ戻した。


 その隣には、バックヤードで絵美が置いた「墨色のキーボード」が鎮座している。


「……絵美」


 誠司の声は、驚くほど静かだった。


「お前は、今日見たものを忘れて帰ることもできる。

 ……お祖父様の下へ戻り、優しい日常の続きを演じることもな」


「パパ……」


「だが、もし残るというのなら――」


 誠司は、カウンターに置かれていた墨色のキーボードを引き寄せた。


「そのレンズを捨てろ。

 セバスに頼るな。

 ……指先の皮膚を、神経を、この『黒い闇』に直接繋げ」


 優希が、挑戦的な笑みを浮かべて絵美を見つめる。


「さあ、絵美ちゃん。

 あなたはパパを救うためにここに来たの?

 それとも、パパを継ぐために来たの?」


 絵美は、震える自分の右手に目を落とした。


 F-Tail 2号機の熱。


 レンズに映る青い光。


 それらを脱ぎ捨てた先に、父と同じ「孤独な特等席」があることを、彼女は本能で理解していた。


 その沈黙を切り裂いたのは、優希が手遊びのように弄んでいたライターの、カチリ、という硬質な音だった。


「迷っている時間は、一ミリ秒も残されていないわ。

 ……今、この瞬間のログを『白夜』の亡霊たちが逆探知している。

 この店の公衆回線ゲートを閉じるには、マスターの位階コードが必要だけど、今の彼が動けば位置が完全に特定される。

 ……つまり、代わりに誰かが泥を被る必要があるのよ」


 優希の言葉は、絵美の「技術」ではなく「覚悟」を剥き出しにするためのメスだった。


 誠司は何も言わない。


 ただ、墨色のキーボードを愛おしむように撫で、それを絵美の手の届く場所へと押し出した。


 その無機質な筐体は、まるでこれから始まる情報の暴風域を乗り越えるための「黒い盾」のように見えた。


 誠司の視線が、優希へと向く。


「……優希。

 お前は初めから、この娘を巻き込むつもりでここへ来たのか」


「まさか。

 でも、血は争えないわよ、誠司。

 彼女の指先を見て。

 ……あなたが引退を装って磨いてきたどのグラスよりも、彼女の指は電子の海に馴染んでいる」


 絵美は、自分の右目に指をかけた。


 レンズ越しに見える世界は、親切な数値とグラフに彩られている。


 セバスという盾があれば、自分は安全な場所から世界を覗き見ることができる。


 だが、その薄い膜一枚が、自分と父との間に、埋められない距離を作っていることも事実だった。


「……セバス。

 全ての支援プロトコルを解除。

 ……これより、スタンドアロンに移行するわ」


『……お嬢様。

 それは自殺行為です。

 私の演算能力なしでは、あなたの脳は情報のオーバーフローに耐えられ――』


「シャットアップ。

 ……私の『目』は、もう慣れているわ」


 絵美は迷わず、右目のコンタクトレンズを外した。


 視界から色彩鮮やかなログが消え、古びた喫茶店の、薄暗く、しかし「確かな質感」を持った光景が飛び込んでくる。


 視力が戻ったわけではない。


 むしろ情報は減ったはずなのに、空気の震えや、誠司の深い呼気、優希が放つ冷徹な殺気が、皮膚から直接脳へ流れ込んでくるような錯覚に陥った。


 絵美は「墨色のキーボード」に手を置いた。


 その瞬間、冷え切っていたはずのキーから、父の、そして歴代のハッカーたちが刻んできた“意志の熱”が伝わってくる。


「私は、パパを助けに来たんじゃない」


 絵美の声から、震えが消えた。


「パパが守ってきたこの場所を、私が『私』のために守るの。

 ……いいでしょ、マスター?」


 誠司は一瞬、サングラスを外そうとして、その手を止めた。


 その口元に、わずかな、だが誇らしげな歪みが生まれる。


「……勝手にしろ。

 ただし、コーヒーをこぼすな。

 ……これの中身は、お前の血より高いぞ」


 優希が満足げに笑い、コートの襟を立てた。


 夜の帳の向こうから、姿なき「天使狩り」たちの足音が、電子の唸りとなって近づいていた。

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