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4-6 大天使の休息

 看板の明かりを落とし、入り口のプレートを『Closed』にひっくり返した。


 先ほどのハイエナたちの殺気が嘘のように、店内にはネルドリップの残り香と、真空管アンプが奏でる古いジャズだけが、おりのように沈殿している。


 絵美はカウンターの端で、ようやく右目の違和感から解放されるために、まぶたを強く閉じた。


 瞬きをトリガーにして、網膜に投影されていたコンソールが露のように霧散する。


「……セバス、スリープ。

 バックヤードの本体を冷却モードに」


『了解、お嬢様。

 本日の稼働ログを秘匿領域へアーカイブします。

 ……お疲れ様でした。

 お嬢様の血圧、正常値へ復帰を確認。

 ……しかし、マスターの挙動は依然として解析不能です』


 脳内に直接響いていたセバスの電子的な声が、深い静寂の向こう側へと遠ざかる。


 バックヤードのロッカーに置いたカバンの中で、ようやく小型サーバーがその熱を冷まし始めた頃だろう。


 絵美が大きく溜息をついた時、カウンターの向こう側から、誠司の乾いた声が飛んだ。


「そのレンズ、外しておけ。

 神経が焼き切れるぞ」


 絵美はびくりとして顔を上げた。


 誠司は背を向けたまま、手慣れた手つきでデミタスカップを磨いている。


 その動きには、一点の迷いも、先ほどの戦闘の残滓もなかった。


「……気づいてたんだ。

 私がコンタクトを付けてるの」


「お前の視線は、客ではなく『客の数センチ手前』にある情報を追っている。

 AR(拡張現実)のレイヤーを追いすぎて、現実の解像度が落ちているぞ。

 ……白夜との攻防時の使い古された、未熟なハッカーの癖だ」


 誠司は磨き終えたカップを棚に戻し、ゆっくりと振り返った。


 サングラス越しでも、その視線が絵美を射抜いているのがわかる。


「パパこそ、何もしないで見守ってたふりして。

 ……あのハイエナたち、もしエージェントが来なかったら、どうするつもりだったの?」


「だから、俺がいた。

 ……そして、連絡員エージェントもな」


 誠司はカウンターに片肘をつき、わずかに声を落とした。


「絵美。

 お前が使っているレンズ型ARも、F-Tailも、八咫烏のセンサーを誤魔化せる代物ではない。

 ……俺が黙っていたのは、お前の『嘴』がどこまで通用するかを試しただけだ」


 ――大天使アークエンジェル


 先ほど連絡員の老紳士が口にした、その称号が絵美の脳裏をよぎる。


「……大天使って、パパのことなんでしょ? 八咫烏の実行部隊リーダーだって。

 そんなすごい人が、どうしてこんなところで隠居なんてしてるのよ。

 パパが本気を出せば、あんなハイエナなんて一瞬で……」


「隠居ではない。

 ここは、組織の最も重要な『検問所』だ」


 誠司は言葉を遮り、カウンターの下から一冊の古びた革製の手帳を取り出した。


 それはデジタルなデバイスではなく、物理的な記録媒体。


 バックヤードで見つけた「墨色のキーボード」と同じ、沈黙を守るための道具だ。


「レンズに映るパケットは嘘をつかないが、残酷なまでに『今』しか映さない。

 ハッカーはな、絵美。

 数字の羅列に溺れるあまり、目の前の人間が放つ『熱』や、空気が震える『音』を忘れる。

 ……今日、お前を助けたのはセバスの演算ではない。

 俺とお前が手を重ね、ポットの先で感じた『淀み』だ」


 誠司はそう言うと、手帳の最新のページに、万年筆で「八」という数字を書き込んだ。


 それは今日、この店を通過し、そして「処理」された脅威の数なのかもしれない。


「パパ……」


 絵美は改めて、父の背中を見つめた。


 かつて自宅で、優しい笑顔とともに「お帰り」と言ってくれた父の影は、ここにはない。


 代わりに立っているのは、世界中から押し寄せる濁流のような悪意を、たった一杯のコーヒーを淹れる静寂の中で押し留めている、孤高の門番だ。


 彼が守っていたのは家族だけではない。


 この「検問所」を維持することで、八咫烏という組織の、そしてこの街の均衡を守っていたのだ。


「……飲みなさい。

 お前の今日の『給料まかない』だ」


 誠司は「まかないだ」と言って、琥珀色の液体の入った小さなカップを彼女の前に置いた。


 レンズを通さない、生の視界で見つめるコーヒー。


 それは、どのARレイヤーで見るよりも深く、複雑な輝きを放っていた。


 絵美はゆっくりとそのカップを口に運んだ。


 熱い液体が喉を通り、胃の奥にすとんと落ちる。


 デジタルな勝利の余韻よりもずっと強く、確かな「現実」の味がした。


「苦い……。

 でも、なんだか凄く、落ち着く」


「それは、お前が『こちら側』へ一歩踏み込んだ証拠だ。

 ……だが忘れるな。

 今日、あのハイエナを追い払ったのは単なる端緒に過ぎない。

 マーキングされた事実を逆手に取る連中もいる。

 ……明日から、この店にはもっと質の悪い客が来るだろう」


 誠司はサングラスを少しだけ下げた。


 そこには、慈愛ではなく、荒野を生き延びた戦士の鋭い眼差しがあった。


「レンズの情報だけを信じるな、絵美。

 自分の目で見ろ。

 それが『天使』として生き残る唯一の手段だ。

 ……お前がそれをできないなら、明日から店に来る必要はない」


 突き放すような言葉。


 だが、絵美はその冷たさの中に、父が自分に託そうとしている「重いバトン」を感じていた。


 父が一人で背負ってきた「大天使」の羽。


 その重みを分かち合う資格が自分にあるのか、今はまだわからない。


「……わかってるわよ。

 明日も、遅刻しないで来るから。

 ……マスター」


 絵美は空になったカップを置き、わざとぶっきらぼうに背を向けた。


 バックヤードへ戻る彼女の背中越しに、再び誠司がネルを振る音が聞こえ始めた。


 トッ、トッ、という規則正しいリズム。


 それは、嵐の前の静けさの中で、次の戦いに向けて研ぎ澄まされる刃の音のように聞こえていた。

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