4-4 無音の火花
店内には二人の客。
昼下がりの穏やかな陽光が、アンティークなテーブルの上に琥珀色の輪を描いている。
だが、絵美の視界は、右目のAR(拡張現実)レイヤーが吐き出す血のような警告色で塗りつぶされていた。
『お嬢様、野良スカウターが店のサブゲートを突破。
レポート送信まで残り三十秒。
……このままでは本座標が「白夜」へ自動送信されます』
(わかってるわよ……!)
絵美は注文用のタブレットを手に、ぎこちなくフロアに立っていた。
表面上は、不慣れなバイトが客の注文を確認しているだけに見えるだろう。
だが、タブレットの裏側では、彼女の指先が目にも留まらぬ速さでコードを編み上げていた。
相手は組織が放った「野良」の自動追跡プログラム。
だが、その挙動は自律型とは思えないほど執拗だった。
絵美が築いた防壁を、寄生虫のように食い破り、中枢へと迫ってくる。
(速い……! 嘘でしょ、これ本当にただの自動プログラムなの?)
迎撃用の「アクティブ・ディフェンス(能動的防御)」の実行キーが画面に浮かぶ。
これを叩けば敵を焼ける。
だが、タイミングをコンマ一秒でも外せば、この店自体の通信ログを巻き添えにして自爆する。
「パパの場所を、私が消しちゃうかもしれない」
その恐怖が、ハッカーにとって最大の禁忌である「指先の震え」を誘発した。
実行キーを前に、指が、止まる。
その時、背後に、焙煎したての豆の香りと、冬の海のように冷徹な気配が立った。
「三番テーブル、ガムシロップが足りない」
誠司が、注文を確認する体裁で絵美の背越しにタブレットを覗き込んだ。
彼の大きな手が、絵美の震える手首を、万力のような力強さで固定する。
逃げることも、迷うことも許さない、鉄の拘束。
「……絵美、指が遊んでいるぞ」
低い声が、耳元で重く響いた。
ドクン、と絵美の心臓が跳ねる。
「敵の呼吸を読め。
お湯を落とす時と同じだ。
表面の波立ちを見るな。
底にある論理の核を撃て」
誠司の指が、絵美の指の上に、重なる。
かつてタイピングを教わった時と同じ、あの熱く、硬いタコの感触。
彼は絵美が「攻撃ポイント」だと思い込んでいた座標を無視し、システムの死角となっていた全く別の「空白」へと、彼女の指を導き、迷わずタップさせた。
一拍の静寂。
次の瞬間、視界を覆っていた赤い警告が、一気に穏やかな琥珀色の「Normal」へと書き換わった。
誠司が突いたのは、敵の通信プロトコルのわずかな「淀み」だった。
敵は自分が撃たれたことすら気づかぬまま、自己崩壊の渦に飲み込まれて消えた。
『……排除完了。
お嬢様、マスターの介入により、我々の演算を三手先回りました。
……非論理的なまでの精度です』
セバスの驚愕をよそに、誠司はすぐに手を離した。
何事もなかったかのようにカウンターへと戻り、再びネルを振り始める。
「……シロップを忘れるな。客は待ってくれない」
絵美は自分の指先に残る、痺れるような熱い感触を見つめた。
自分の持っている最新の「速さ」が、父の持つ「深さ」に、一瞬で捻じ伏せられたのだ。
「……わかってるわよ。
意地悪なマスター」
彼女は小さく毒づき、震えの止まった指でタブレットを操作した。
ガムシロップを取りに向かう彼女の背中を、誠司はただ、黙って見送る。
その視線は、もはや迷子を探す父親のものではない。
同じ闇に足を踏み入れた「新兵」の生存率を、冷徹に見極めるプロの眼差しだった。
三番テーブルにシロップを運び終え、絵美は小さく息を吐いた。
視界の端では、セバスが先ほどのログをクリーンアップしている。
父に手を取られた瞬間の残熱が、まだ指先にこびりついているようだった。
「……セバス、今のパパの動き、記録できた?」
『ポジティブ。
ですが、再解析は困難です。
マスターの打鍵は、既存のアルゴリズムに基づいたものではありません。
それはもはや、経験則という名の「直感」です』
絵美はカウンターの隅で、再び注文用タブレットを開いた。
排除したスカウターの残骸を確認し、完全に消滅したことを確かめるためだ。
だが、そこでセバスのトーンが変わった。
『待ってください、お嬢様。
……妙です。
消滅したスカウターのバックトラック(逆探知)を開始したところ、不審なパケットの挙動を検知しました』
「どういうこと? 倒したんじゃないの?」
『個体は破壊されました。
しかし、あのスカウターが「死ぬ間際」に放った最後の一撃。
それはレポートの送信ではなく、この店のローカルサーバーに対する「マーキング」でした』
タブレットの画面に、一筋の細いコードが浮かび上がる。
それは、実体を持たないプログラムが、最後に残した「匂い」のようなものだった。
『このマーキングは「白夜」へ直接報告するものではありません。
ですが、この街のアンダーグラウンドに流れる特定の周波数に、この店の座標を「餌」として公開してしまいました。
……お嬢様、野良のスカウターは、単なる偵察機ではありませんでした』
「……呼び寄せたっていうの? 別の何かを」
『肯定。
ハイエナが獲物を見つけた際に行う、遠吠えに相当します。
……現在、複数のIPアドレスがこの座標へのルートを検索し始めています。
それも、組織の正規軍ではなく、報酬目当ての「掃除屋」たちです』
絵美は顔を上げ、店の入り口を見た。
カラン、とドアベルが鳴る。
入ってきたのは、作業着を着たガテン系の男二人組。
一見、休憩に寄っただけの客に見える。
だが、絵美のコンソールが彼らのスマートフォンから漏れる「不自然なスキャン信号」をキャッチした。
彼らは組織の人間ではない。
だが、組織がばら撒いた「懸賞金」を狙う、ハイエナのような連中だ。
カウンターの奥で、誠司がゆっくりと手を止めた。
彼はサングラス越しに、新しく入ってきた「客」をじっと見つめている。
その手は、いつの間にかネルではなく、カウンターの下――おそらく護身用の何か、あるいは緊急遮断スイッチがある場所へ伸びていた。
「……セバス。
パパ、気づいてるわよね」
『十中八九。
……お嬢様、ここからはハッキングだけの戦いでは済みません。
物理的な「排除」が必要になる可能性があります』
絵美はエプロンの紐を強く結び直した。
父の隠れ家を汚した「野良犬」が、最後に見せた死に際の悪あがき。
琥珀色の平穏は、今度こそ音を立てて崩れようとしていた。
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