4-3 琥珀色のプロトコル
バイト二日目の朝。
絵美はカウンターに立つなり、昨日もらったジャムの空き瓶を、誠司の目の前に「コト」と置いた。
中身は空だが、ラベルは綺麗に剥がされている。
「ごちそうさま。
……酸味が強くて、少し古臭い味だったわ」
マスターは布巾でグラスを磨きながら、表情一つ変えない。
「それは残念だったな。
……だが、古いものはそれだけ長く生き残ってきた証拠だ」
会話はそこで途切れる。
しかし、その空き瓶の底には、絵美が昨晩「F-Tail」を使ってレーザー刻印した、最新の暗号鍵が刻まれていた。
――あなたの「生存報告」は受け取った。
次は私の「領域」に来なさい。
それは、娘から父へ突きつけられた、無言の宣戦布告だった。
誠司は無造作に瓶を回収すると、顎で店の奥を指した。
「……生意気な舌だ。
その分、手も動かしてもらおう。
バックヤードの備品棚を整理しろ。
使えるものと、ゴミとな」
◆
バックヤードは、焙煎機の熱気と埃の匂いが混ざり合う、狭いシェルターだった。
蛍光灯がジジッ、と不規則な音を立て、影を揺らす。
絵美はマザーボードの残骸や剥き出しの光ファイバーが絡まり合う山を、外科医のような手つきで仕分けていった。
バックヤードの隅、埃を被った棚に、それは鎮座していた。
その最奥、湿った闇の中に、光を吸い込むような「黒」を見つけた。
――伝説的な無刻印キーボード、HHKB Professional。
墨色の筐体には、アルファベットの一文字すら刻まれていない。
それは、かつて父の書斎の主だった、文字通り「顔(刻印)」のないデバイスだ。
「のっぺらぼうね。……パパと同じ」
彼女はそっと、その静電容量無接点方式のキーに指を滑らせた。
瞬間に、記憶の引き金が引かれる。
八年前、まだ自分の手が、この墨色のキーボードの半分ほどの大きさしかなかった頃。
背後から包み込むように重なった、父の大きく、熱い手。
『いいか絵美。
キーボードは指先で叩くものじゃない。
脳のシナプスを、直接電子に繋ぐための端子だ。
文字を見るな。
指の腹で、論理の形を感じるんだ』
その時、父の指先にあった硬いタコの感触。
無刻印の闇を迷わずに踊る父の指は、まるで魔法使いの杖のように見えた。
今、自分の指の下にあるこの黒い塊は、あの日の父の「体温」を閉じ込めたまま、ここで凍りついている。
『警告。
お嬢様、対象デバイスの分析を完了』
耳元のセバスが、感傷を切り裂くように冷たく告げた。
『製造から十年以上が経過。
ポーリングレートは現代の標準に遠く及ばず、入力ラグは最大で15ミリ秒。
APEX Pro miniと比較した場合、生存率は0.8%低下します。
……結論。
それはゴミです。
破棄し、最新の光スイッチへの移行を推奨します』
「黙ってて、セバス。
……効率だけで語れないものが、この世にはあるのよ」
『理解不能です。
ハッカーにとって、速度は命。
この“錨”のように重い打鍵感は、あなたの思考を鈍らせるノイズに過ぎません』
「そうね。
でも、このノイズが、私をここに繋ぎ止めているの」
絵美は無意識に、ホームポジション――「F」と「J」の僅かな突起を、指の腹で確かめる。
自分のバッグに眠るAPEXが、ミリ秒単位の火花を散らす「剥き出しの神経」だとしたら、このHHKBは、すべてを飲み込み、沈黙させる「深淵」だった。
絵美がARレンズ越しにそのデバイスを解析すると、レンズは「互換性不明:ロストテクノロジー」というエラーを吐き出す。
(そんなはずない。これはパパの……『大天使』の翼だったはずよ)
背後に、人の気配が立つ。
サングラスの男が、いつの間にか入り口に立っていた。
「……それは、もう動かない。捨てておけ」
低い声が、狭い空間に反響した。
絵美は指を離さず、ゆっくりと顔を上げる。
「いいえ、動くわ。
……ただ、これに触れる資格がある人間が、ここには誰もいないだけよ」
挑発を、誠司は乾いた鼻鳴らし一つで受け流した。
「無刻印は、自分以外の誰にもその機材を扱わせないという、ハッカーの傲慢の象徴だ。
今の時代には、反応速度が遅すぎる」
「遅いんじゃないわ。
……思考の速度を、選んでいるのよ」
絵美がかつての父の言葉をなぞるように返すと、誠司の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
「私のAPEXは、ミリ秒単位で敵を切り裂く。
でも、このキーボードは、海に打ち込まれた重い『錨』みたい。
……自分を見失わないための」
「……錨は、船が沈む時、一緒に心中するための道具でもあるぞ。
お嬢さん」
誠司はそう言って、出口へと背を向けた。
「掃除が終わったら、表に戻れ。
……そのガラクタは、好きにしろ」
◆
彼が去った後、セバスが囁いた。
『……お嬢様。
APEX Pro miniの最新ファームウェアを適用します。
彼の「錨」に引き摺り込まれないよう、あなたの速度を維持する必要があります。
あのキーボードは非合理的です』
「わかってるわよ。
……でもね、セバス。
パパは、この重い錨一本で、あの大海原を生き残ってきたのよ」
絵美はその墨色のキーボードを、ゴミ袋には入れなかった。
代わりに、備品棚の最も目立つ場所――まるで「玉座」のように整えられたスペースへと据え置いた。
その時、視界の右端に投影されているコンソールが、血のような赤色に明滅した。
耳元のセバスから、低周波の、しかし脳を直接揺さぶるような鋭い警告音が飛ぶ。
『お嬢様、周囲のノイズレベルが急上昇。
近接通信ログに異常を確認しました』
絵美は反射的にエプロンのポケットにある「F-Tail」の起動スイッチに指をかけた。
意識をデジタルへダイブさせ、店の周囲に展開されているパケットの奔流を視覚化する。
店の外、真夏の陽炎が揺れるアスファルトの上に、普通の人間には見えない「電子の獣」の影が浮かび上がった。
『特定しました。
組織の「野良」スカウターです。
特定個人を標的にした追跡ではありません。
広域に放たれた自律型の自動収集プログラム……いわば、ネットの底を浚う「電子の野犬」です』
「……野犬。
それがどうしてここに来るのよ。
パパはこの店を完璧に隠していたはずでしょ」
『貴女が数日前、自宅で実行した父君の足跡追跡クエリです。
その際に生じた微細なパケットの断片を、この自動検知機が嗅ぎ取った可能性があります。
……現在、スカウターは店舗入口の公衆Wi-Fiにコンタクト中。
あと六十秒で、この座標の特異性を「白夜」の広域サーバーへ自動レポートします』
絵美の背中に、嫌な汗が流れた。
この店が狙われているわけではない。
ただ、街を漂う「ゴミ」に、自分の不用心さが火をつけてしまったのだ。
もしレポートが送信されれば、この静かなシェルターは、数時間のうちに組織の監視下に置かれることになるだろう。
「……レポートを遮断して。
パパの居場所を、私のミスで汚させない」
『非推奨です。
店内でジャミングを実行すれば、マスターのシステムに干渉します。
彼は貴女の行動を「敵対行為」とみなす恐れがあります』
「わかってるわよ。
……だから、誰にも気づかれないようにやるの。
アナログとデジタルの、ちょうど隙間を突いてね」
絵美はバックヤードを出て、再びカウンターへと戻った。
マスターは何も知らぬ顔で、客のいない店内でネルを振っている。
窓の外では、陽炎に紛れて「見えない獣」が、しきりに八咫烏の看板をスキャンしていた。
彼女はカウンターに滑り込ませたジャムの空き瓶――自分が刻んだ暗号鍵の横に、指を置いた。
表面上は、ただのバイト初日の不慣れな少女。
だが、その脳内では、0と1の火花が散る迎撃戦が、無音のまま始まろうとしていた。
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