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4-2 アルバイトの応募

 夏休みの二日目。


 アスファルトを焼く白光を背に、絵美は重いドアを押し開けた。


 喫茶「八咫烏」の内部は、静寂と焙煎の香りが支配する、外界から切り離されたシェルターだった。


 カウンターの奥、サングラスの男が顔を上げる。


 絵美の耳元で、セバスの無機質な合成音声が囁いた。


『心拍数82。

 お嬢様、演算を一時休止し、対人プロトコルに移行します。

 冷静に』


「ここで働きたいって?」


 マスターの声は、使い古されたボルトのように低く、乾いていた。


 絵美は言葉を返さず、真っ白な封筒をカウンターに滑らせる。


 男は履歴書には目もくれない。


 代わりに、サングラスの奥の視線が、彼女の立ち居振る舞いを「走査」する。


 キーボードを叩き続けた指の形状、僅かな足音の乱れ。


 まるで、その娘が隠し持っている「牙」の長さを測っているようだった。


「うちは重いぞ。

 コーヒーも、ケーキも。

 ……客の抱える事情もな。

 それでも運ぶか?」


「重いのは慣れているわ。

 ……これの中身よりは、ずっとね」


 絵美は足元のバッグを軽く叩いた。


 数秒の、鉛のような沈黙。


 やがてマスターは、カウンターの下でオルゴールのハンドルを一回転させた。


 ――キィン。


 一度きりの鋭い高音が、採用の合図であり、同時に「開戦」のベルとして響いた。


 ◆


 初出勤の朝。


 カウンターの奥には、サングラスをかけ、微塵の隙もない所作でネルを振る男――マスターがいた。


「……バイト募集の張り紙、見ました。

 今日からでいいですか、マスター」


 マスター――誠司の手が、一瞬だけ止まる。


 だが彼はサングラスを外さず、娘の顔も見ず、ただ冷徹に言い放った。


「仕事中はマスターと呼べ。

 ……エプロンは裏だ」


 絵美は鼻を鳴らし、バックヤードへ向かった。


 ロッカーにセバスの本体を隠し、カバンの中に潜ませる。


 これで彼女の「視界」は、店の外まで広がる電子の目となった。


 開店前のレクチャーは、コーヒーミルの操作から始まった。


「耳を使え。

 豆が砕ける音が変わった時は、街の空気が変わった時だ。

 ……客がドアを開ける前に、その気配を読め」


 次にお湯を注ぐ段階に入ると、マスターは絵美の背後に立ち、その腕を固定するように言った。


「心臓の鼓動を、ポットの先に伝えるな。

 お湯が脈打てば、豆は警戒して心を閉ざす。

 無機質な機械になりきれ」


 注がれるお湯は糸のように細く、真っ黒な粉の中心を正確に射抜く。


 バッグのセバスが『注水角度、誤差3度。修正を推奨』と囁くが、絵美はそれを無視し、マスターの低い呼気のリズムに自分の肩を合わせた。


 続いて、アイスコーヒーの仕込み。


「カチリ、と音を立てるな。

 それは自分の位置を敵に教える音だ」


 マスターの手本は、氷が液体に沈む音さえさせない。


 絵美は、昨日自分が客として飲んだアイスコーヒーの氷の音が、いかに不用心に響いていたかを思い知らされる。


 セバスが異を唱える。


『非科学的です。

 温度計とタイマーを使用すれば、再現性は100%に保てます。

 なぜ彼は、その不安定な「指先の感覚」を優先させるのでしょうか』


 絵美はハッとする。


 その非合理な教えこそが、かつて父が自分を膝に乗せて教えてくれた「温もり」の記憶に近いものであることに気づき始めていた。


「コーヒーは、淹れる人間の嘘を暴く。

 ……落ち着け、絵美」


 咄嗟に本名を呼ばれた気がして、彼女の手が止まりかけた。


 だが、男はすぐに「……お嬢さん」と言い直し、サングラスの奥で視線を逸らした。


 ネルを通過したコーヒーが、一滴、また一滴とサーバーに落ちる。


『セバスより報告。

 周囲のノイズレベル上昇。

 店外を組織のスカウターが通過した可能性があります』


 バッグの中のセバスが、冷徹な警告を発する。


 だが、目の前の男は、ただ静かにドリッパーから立ち昇る湯気を見つめていた。


「外がどれだけ騒がしくても、手元を狂わせるな。

 ……それがここで働く唯一の条件だ」


「ネルを乾かすな。

 一度乾けば、それはただの死んだ布だ」


 マスターはそう言って、カウンターの端に封筒を置いた。


 初日の給料にしては重い。


 中には現金と、ザッハトルテに使われるアプリコットジャムの小さな瓶が入っていた。


「それは口直しだ。

 ……お前の淹れたコーヒーは、まだ少し尖りすぎているからな」


 ◆


『今日の業務効率は62点です。

 特にマスターとの接触時、貴女の血圧は危険域に達していました。

 あの男との接触は精神衛生上、非推奨です』


「そうね。

 ……でも、あのアナログな淹れ方、あんたのデータベースにはなかったでしょ」


 帰宅した食卓には、苺のショートケーキが置かれていた。


「お帰り、絵美。

 新しいバイトはどうだったかな? 疲れただろう。

 甘いものでも食べて、早く休みなさい」


 祖父が淹れてくれた市販の薄いコーヒーを啜りながら、絵美は真っ白なショートケーキを口に運んだ。


 脳が甘さを享受する一方で、舌の裏側にはまだ、あの店のザッハトルテの重厚な苦味がこびりついている。


『セバスより質問。

 なぜ、同じ「ケーキ」というカテゴリーの食物を、一日に二度も摂取するのですか?』


(……一つは生きるための戦い、もう一つは、明日も戦うための休息よ)


 彼女はジャムの瓶をバッグの奥に隠し、サングラスを外して目を閉じた。


 ◆


 自室の暗闇で、絵美はマスターから渡されたアプリコットジャムの小瓶を月光に透かした。


 琥珀色の液体は、時間を閉じめた化石のように見えた。


 バッグの中のセバスが、スリープモードに入る直前に呟く。


『……お嬢様。

 その瓶のラベルの裏。

 肉眼では確認困難な微細な印字があります』


 絵美は息を呑み、デスクのランプを点けた。


 そこには、かつて家庭教師をしてくれた男性――父が、授業の終わりに必ず添えていた、不格好な「八咫烏」のマークが刻印されていた。


 セバスが学習した「論理」ではなく、父がその手で刻んだ「生存報告」。


 彼女はジャムを一舐めだけして、ランプを消した。


 舌に残った鋭い酸味は、明日、あのサングラスの男に投げかけるべき言葉を彼女の心に刻みつけていた。

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