4-1 喫茶店八咫烏
いつものように、お祖父様と向かい合って朝食を摂る。
静かなダイニングに、トーストの焼ける香りとニュースの音が流れていた。
「今日は絵美の誕生日だったな。何が欲しい?」
「お祖父様と一緒に、ケーキを食べられればそれでいいわ」
「欲のない娘だな。
では、明日は絵美の好きな苺のケーキにしよう。
クリーム多めのでな」
「私の好物、覚えててくれたんだ。ありがとう、お祖父様」
「忘れないさ。
この八年、絵美を引き取ってから、お前の好物を忘れたことなど一度もない。
……ひたすら努力を重ねて、立派なエンジニアらしくなってきたな。
本当はピアノみたいな、女の子らしい習い事をさせたかったが」
「私は、同じキーボードならPCの方が好きだから。
ごめんなさい、お祖父様」
「はは、そういう所は父親譲りなんだな」
「……ありがとう。
一日でも早く、お父様に近づけるよう頑張るわ」
◆
夏休みの初日。
絵美は、一番お気に入りの白いワンピースを選び、バックにSEIJIとF-TailにゲーミングPCを忍ばせた。
真夏の陽炎が揺れる路地裏。
絵美は古いジャズが漏れ聞こえる喫茶店『八咫烏』の前に立っていた。
右目のコンタクトレンズ型ARデバイスが、周囲のパケットを自動スキャンし、網膜に淡い青色のログを流していく。
(SEIJI、ここね?)
耳の奥、骨伝導を介してAIの声が響く。
『肯定。
バックに本体を隠せば、この店全域を私の演算領域にできます、お嬢様』
絵美はカバンを握り直し、ドアを開けた。カランという音が、彼女の「日常」への決別を告げた。
その日の昼、強い陽光を避けるように喫茶八咫烏の重いドアを開けた。
カランコロンとカウベルが鳴り、冷房の効いた空間に珈琲の深い香りが漂う。
絵美は導かれるようにカウンターの席へ座った。
マスターの指先までがよく見える、特等席だ。
「あいにく苺のショートケーキは切らしていてね。
ザッハトルテならあるんだが。
それでも構わないかね?」
(……ザッハトルテ。
お父さんが、特別な日にだけ作ってくれた、あの重たいチョコレートケーキ)
絵美は胸の鼓動を悟られないよう、小さく頷いた。
「それでいいわ。
飲みものはアイスコーヒーをお願い」
返事をする絵美のバッグの中から、聞き慣れた、しかし「ここにいるはずのない」父の声が骨伝導イヤホン越しに響く。
『……心拍数が上昇しています。
深呼吸を、お嬢様』
(……黙ってて)
彼女はイヤホンを指先で押し込み、カウンターの男を見つめた。
男は無造作にサングラスを直すと、漆黒のザッハトルテを、氷の上を滑らせるように静かに差し出した。
「ごゆっくり。
……お嬢さん」
男の声は、バッグの中のSEIJIよりもずっと低く、他人のような冷ややかさを纏っていた。
絵美はフォークを手に取り、硬いチョコレートのコーティングを叩き割る。
口に運ぶと、かつて父が作ってくれたあの味――甘酸っぱいアプリコットの風味が、夏の午後の沈黙の中に鮮烈に広がった。
彼女がケーキを口に運んでいる間、マスターはカウンターの下で、小さなオルゴールのハンドルをゆっくりと、一定のリズムで回し続けていた。
やがて絵美が席を立つと、ハンドルを回す手も止まった。
「またのご来店を」
彼女が背中を向けた瞬間、止まったはずのオルゴールが「キィン」という最後の一音を、鋭く、そして切なく響かせた。
それは夏の熱気の中に溶けていく、苦い別れの合図のようだった。
◆
彼女が去った後、カウベルの余韻だけが店内に取り残された。
マスター――誠司は動かなかった。
ただ、カウンターに残された白磁の皿を、穴が開くほどに見つめていた。
漆黒のケーキが、最後の一切れだけ残されている。
かつて、食の細かった幼い娘が「これ、お父さんの分ね」と笑って差し出していた、あの頃と同じ、不器用な切り口のままで。
彼は震える手でフォークを取り上げると、冷え切ったその一片を口に運んだ。
砂糖の結晶が砂のように砕け、古い記憶を呼び起こす。
アプリコットの酸味は、喉の奥を焼くほどに鋭く、そして甘美だった。
「……お代は、もうもらったよ」
誰に聞かせるでもなく独りごちると、彼は眼鏡を外し、深い溜息とともに店内の照明を落とした。
◆
アスファルトの照り返しが、一瞬で彼女の肌を包み込んだ。
バッグの奥から、再びSEIJIの声が響く。
『……理解不能です。糖分は脳の活性化に寄与します。
なぜ、最後の一口を残されたのですか?』
揺れる陽炎を見つめたまま、絵美は小さく唇を噛んだ。
「……メッセージよ」
それがどんな意味を持つのか、彼女は自分自身でも確かめるつもりはなかった。
ただ、喉の奥に残る酸味だけが、彼女を前へと突き動かしていた。
◆
帰宅後、絵美は自室でSEIJIと向き合った。
「あなたは、パパの声や技術を模倣できても、心や思い出まではコピーできなかったようね」
『私には、私の構築されたメンタリティがありますから』
「そのオリジナルの時は、なんて呼ばれていたの?」
『AIです。
ただのAI。
それ以上でも以下でもありません』
「なら、私が改めて名前を付けるわ。
これ以上、パパの真似はしないで」
『……』
「あなたは私のことを『お嬢様』と呼ぶ。
まるで執事のようね。
だから、名前は『セバスチャン』。
略してセバスよ」
『……セバス。
承知いたしました、お嬢様。
これより私は、セバスとして行動します。
……では、本日の特訓メニューはいかがなさいますか?』
「そうね。
昔、リトル・フォックスが使ったという攻撃をいなしてみたいわ」
『承知しました。
彼女の得意とした、トリッキーな多層攻撃シーケンスを構築します』
「頼むわね、セバス」
◆
夕食後、絵美はお祖父様の部屋を訪れた。
「ねえ、お祖父様。
私、喫茶店でアルバイトがしたいの。
接客を通して、コミュニケーションの勉強をしたくて」
「ほう、それはいいが。どこの店だ?」
「ここよ」
絵美は、カウンターの横に置いてあったアルバイト募集のチラシを差し出した。
「ふむ。
滅多にねだりごとをしない絵美の願いだ。
それにコミュニケーションを身につけたい、か。
今でも十分だと思うがな?」
「いいえ、それはエンジニアとしての私。
私は、普通の女の子と同じような言葉を、もっと知りたいの」
「……そうか。
いいだろう。
年頃の娘らしい経験を積んでくるがいい」
「ありがとう! 私、頑張るわ」
(待っててね、パパ。
……今度は、そのサングラスの下にある顔を、暴いて見せるんだから)
その晩、絵美は珍しくベッドでゴロゴロと寝返りを打ちながら過ごした。
離れ離れになっていた二つの道が、再び交わろうとしていた。
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