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4-0 プロローグ:お嬢様の仮面と、狐の牙

 神宮絵美の朝は早い。


 名門・聖アデラ女子学院の制服に袖を通し、鏡の前で完璧な「お嬢様」の微笑みを作る。


 かつて父が「ノーフェイス」として無表情を貫いたように、彼女もまた、学校という社交場では本心を分厚いヴェールで覆っていた。


 校内での彼女は、数学と物理で常に学年首位を独走し、ネイティブ並みの英語で教師を驚かせ、それでいて控えめな、非の打ち所がない優等生だ。


「神宮さん、また情報処理のテスト、満点だったんですって?」


「いいえ、運が良かっただけですよ」


 クラスメイトの羨望の眼差しを柳に風と受け流しながら、絵美の指先は無意識に、制服のポケットに忍ばせた「キツネの尻尾(F-Tail)」を撫でていた。


 ◆


 放課後、帰宅した彼女が真っ先に向かうのは、自室の奥に構築された「戦場」だ。


 かつて父が家庭教師として画面越しに施した英才教育。


 それは今、AI『SEIJI』との極限のトレーニングへと昇華されていた。


「SEIJI、今日のメニューは?」


『お嬢様、お帰りなさいませ。

 本日は、多重プロキシを経由した「白夜型」の分散攻撃に対する、能動的ハニーポットの展開訓練を行います。

 用意はよろしいですか?』


「ええ、いつでも。……パパがそうしたように、一秒以内に片付けてあげる」


 絵美はサングラス型デバイスを装着する。


 網膜に直接投影されるコンソール。


 彼女の脳内では、数学的直感とSEIJIの演算能力が完全に同期していた。


 自宅のLAN内に構築された仮想サーバー群を舞台に、絵美の指がキーボードの上で「舞う」。


 それはもはやタイピングというより、複雑な数式を空間に描く芸術に近い。


 誠司直伝の論理的思考に、若さゆえの荒々しい突破力が加わり、彼女の技術は既に八咫烏の「天使」級の領域に足をかけていた。


 ◆


 夕食を終え、祖父が寝静まった深夜。


 部屋のドアが「カチリ」と施錠される時、彼女の本当の一日が始まる。


 彼女が机に向かうのは、宿題のためではない。


 ポータブルゲーミングPCを母艦とし、周囲に展開された複数のモニターには、世界のどこかで今この瞬間も行われているサイバー攻撃のリアルタイム・マップが映し出されている。


「ねえ、SEIJI。

 お父さんは、こんな孤独な景色をずっと一人で見ていたの?」


『ドクター……誠司様は、これを孤独とは呼びませんでした。

 彼は「世界を守るための特等席」だと仰っていましたよ』


「ふふ、お父さんらしいわね」


 絵美は、SEIJIの言葉の端々に宿る誠司の「思考の残滓」を愛おしむように目を細める。


 SEIJIは単なるツールではない。


 それは誠司が絵美に遺した、唯一の「対話の窓口」だった。


 ◆


 技術だけではない。


 彼女には「武具」もあった。


 篤史が入学祝いとして、狂喜乱舞しながら特注した『F-Tail 2号機(プロトタイプ・アビス)』。


 オリジナルを遥かに凌駕するその性能は、まさに一国の通信網すら一時的に沈黙させうる危険な代物だ。


 特に、新たに追加された『超高周波ジャマー』。


 半径1km以内の全ドローンを強制墜落させ、通信を完全にマヒさせるその機能は、優希リトル・フォックスがかつて直面した「ドローンによる暗殺未遂」という悲劇を繰り返さないための、篤史なりの執念の結晶だった。


「これがあれば、もう二度と……あんな思いはさせない」


 絵美は、以前SEIJIから聞かされた「パパが死ななければならなかった本当の理由」を反芻する。


 社会から抹殺され、闇に潜むことでしか家族を守れなかった父。


 その孤独な背中を追いかけるために、彼女は自らを鍛え上げてきた。


 有線ネットワークに接続し、暗号化されたパケットを瞬時にデコードする『優先プロトコル・スニッファー』。


 ポータブルゲーミングPCを中継器とし、SEIJIとF-Tailを連携させ、物理と電子の両面からターゲットを包囲する複合戦術。


 その全てを、彼女は遊びのように、しかし血を吐くような精度で身につけていった。


 ◆


 特訓は自室の中だけに留まらない。


 週末、彼女は「写生の宿題」と称して、あえて通信インフラが複雑に入り組んだ都市部や、古い工業地帯へと足を運んだ。


 目的は、F-Tail 2号機の「ステルス性の検証」だ。


 ターゲットは、街中に溢れる監視カメラや公開Wi-Fiスポット。


「SEIJI、スニッフィング開始。

 私の接近を検知されることなく、管理者権限(root)まで辿り着いて」


『了解。

 F-Tail経由で認証パケットをインジェクションします。

 残り三秒……二……一。ハック完了です』


 一見、ベンチに座ってスケッチブックを広げている女子高生が、実はその瞬間、半径十メートルの通信を掌握している。


「F-Tail 2号機の応答速度、オリジナルより15%向上してる。

 篤史おじさん、また基板の回路設計で無理したわね……」


 有線接続においても、彼女は新機能を用いて公衆電話のメンテナンスポートや店舗の屋外配線から情報を「吸い上げる」感覚を指先に叩き込んだ。


 ◆


 トレーニングが激しさを増すにつれ、絵美の「お嬢様」としての仮面は、より精巧で冷徹なものになっていった。


 同級生たちが流行りのスイーツや恋の話に花を咲かせる傍ら、彼女の脳内では常に、最新のゼロデイ脆弱性のコードがスクロールしている。


「私、あの子たちとはもう、同じ世界には戻れない」


 それは悲しみではなく、一種の誇りだった。


 父が背負った「八咫烏」の羽の一枚に、自分もなりつつあるという実感。


 ある日、絵美はSEIJIに尋ねた。


「もし、私が実戦で失敗して、誰かを傷つけたり、自分が消されたりしそうになったら……その時は、SEIJIが私のデータを消去してね。

 お父さんの名前を汚したくないから」


『……お嬢様。

 その命令は、私の最優先プロトコル「神宮絵美の生存」に抵触するため、却下します。

 私は、貴方を守り抜くために作られました。

 ドクターがそうであったように』


 SEIJIの声に混じった、微かな熱。


 絵美はそれを聞き、満足げに微笑んだ。


 ◆


 そして、夏が近づく。


 TOEIC 850点を軽く超える言語能力、高三レベルを遥かに凌駕する理数系の知識。


 それら全ては、ハッカーとしての基礎体力に過ぎない。


『お嬢様、判定が出ました。論理構築、攻撃速度、状況判断……すべてにおいて「天使」級の基準をクリアしました。

 もはや、私との模擬戦で学べることはありません』


「……じゃあ、次は?」


『実践。

 そして、血の通った人間との「実戦」あるのみです。

 ……準備は整いましたね』


 絵美は窓の外を見つめる。


 視線の先には、街の喧騒に紛れてひっそりと佇む、あの「喫茶店」がある。


 父が潜んでいるはずの、聖域。


「待ってて、パパ。

 ……もうすぐ、会いに行くから」


 準備は、もういい。


 あとは、自分の目で「あの場所」を確かめるだけだ。


 夏休みの誕生日。


 絵美は、一番お気に入りの白いワンピースを選び、バックにSEIJIとF-TailにゲーミングPCを忍ばせた。


 真夏の陽炎が揺れる路地裏。


 右目のコンタクトレンズ型ARデバイスが、周囲のパケットを自動スキャンし、網膜に淡い青色のログを流していく。


 絵美はカバンを握り直す。


 向かうは、街の外れにあるクラシックな喫茶店。


 女子高生としての微笑みを脱ぎ捨て、一人のハッカーとして覚醒した瞳が、電子の海を見据えていた。


 神宮絵美の「プロローグ」は、ここで幕を閉じる。


 ここから先は、彼女が自ら綴る、新しい時代の戦記だ。


 ――時間は動き出す。


 神宮絵美という「新たな翼」が、空を駆ける時が来たのだ。

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