6年目 第2話 期待の重さ
今年の京南FCは、例年以上に順調なスタートを切っていた。
京都府リーグ一部。
六部から始まった俺たちにとって、府リーグ最後のカテゴリーだ。
もちろん、ここで優勝すれば自動的に関西リーグへ昇格できるわけではない。関西府県リーグ決勝大会を勝ち抜く必要がある。
だが、まずは府リーグ一部で結果を出さなければ、その挑戦権すら得られない。
そんな大事な一年に、京南FCは大きな戦力を手に入れていた。
大久保寿也だ。
大学サッカーで活躍し、プロクラブの練習にも参加したことがある選手。
プロ入りこそ実現しなかったが、その実力は府リーグの水準を明らかに超えていた。
何より素晴らしいのは、周囲を生かす能力だった。
大久保が中盤に入ったことで、これまで以上にボールがスムーズに動くようになった。
板垣の動き出しに合わせたパス。
サイドへ展開するタイミング。
相手の守備が整う前に攻撃を仕掛ける判断。
どれも見事なものだった。
「いやあ、いい選手が入ってくれましたね」
練習を眺めながら、俺は思わず口にした。
「ほんまにな。大学であれだけ活躍してた選手やから、期待はしとったけどな」
隣に立つ岡本さんも、満足そうにうなずいた。
「それに、周りの選手にもいい影響が出とる。あいつのプレーを見て、みんな考えるようになっとるわ」
「なるほど」
俺には選手の能力が数字として見える。
だから、大久保が優れた選手であることは、加入前から分かっていた。
だが、実際にチームへ加わってみると、数字だけでは測れない影響もある。
周囲の選手が刺激を受け、チーム全体の質が上がっていく。
これこそ、いい補強というものだろう。
俺は、京南FCの未来がますます楽しみになっていた。
◇
その知らせが届いたのは、リーグ戦が始まってしばらく経った頃だった。
「社長、少しよろしいでしょうか」
人事担当者から声をかけられた。
「はい。どうしました?」
「サッカー事業部の橋本君の件なんですが」
「橋本?」
名前を聞いて、すぐには要件が思い浮かばなかった。
もちろん、誰のことかは分かる。
京南FCの選手だ。
ただ、最近はあまり話す機会がなかった。
「退職の申し出がありまして」
「……退職?」
思わず聞き返した。
「はい。ノードシードを退職したいとのことです」
「サッカー事業部を辞める、という話ではなく?」
「会社そのものを、です」
俺はしばらく言葉を失った。
選手がチームを離れること自体は、これまでにもあった。
今年だって、渡部が出場機会を求めて洛南FCへ移籍している。
選手にはそれぞれの人生がある。
サッカーを続ける場所を変えることも、当然あるだろう。
しかし、今回は少し事情が違った。
橋本はサッカー事業部だけでなく、ノードシードという会社そのものを辞めようとしている。
「理由は聞いていますか?」
「一身上の都合とのことです。本人からは、別の環境で頑張りたいという話がありました」
「そうですか……」
俺は考え込んだ。
橋本。
そういえば、最近の橋本はどうしていたのだろう。
試合にはあんまり出ていなかった気がする。
練習ではどんな様子だった?
仕事の方は順調だったのだろうか?
考えてみても、はっきりと思い出せなかった。
サッカーの試合はできるだけ見に行っているし、岡本さんとも頻繁に話している。
だが、選手一人ひとりの状況まで、細かく把握できているわけではない。
そのこと自体は、社長という立場を考えれば仕方のない面もある。
それでも。
橋本の名前を聞くまで、彼のことがすっかり頭から抜けていた。
その事実が、妙に引っかかった。
◇
後日、橋本と話す機会を設けた。
「退職するって聞いたんだけど」
「はい」
橋本は静かに答えた。
「何か困っていることがあるなら、相談してくれてもよかったんだよ」
「ありがとうございます」
「サッカーのことでも、仕事のことでも。会社としてできることがあるかもしれないし」
「……いえ、いろいろ考えたんですけど、別の環境で頑張ってみようと思っています」
「次の職場は決まってるの?チームとか」
「いえ、一度実家に戻ってそちらで就職先を探そうと思います」
「そうか」
それ以上、橋本は詳しいことを話さなかった。
俺も、何度か言葉を探した。
サッカーが理由なのか。
仕事に不満があったのか。
それとも、まったく別の事情なのか。
聞きたいことはいくつもあった。
だが、橋本の様子を見る限り、もう決意は固まっているようだった。
俺はこれでも社長だ。
今までも何人も会社を辞めていく人間を見てきた。
退職を決めている人間に無理を言って残ってもらっても意味がない。
お互いが不幸になるだけだ。
「分かった。残念だけど、橋本が考えて決めたことなら尊重するよ」
「ありがとうございます」
「これからも、頑張ってほしい」
「はい。今までありがとうございました」
橋本は頭を下げた。
俺も、それに応えた。
面談は、それほど長い時間にはならなかった。
橋本が部屋を出た後、俺はしばらく椅子に座ったままだった。
結局、何も分からなかった。
いや。
分からなかったというより、今まで知ろうとしていなかったのかもしれない。
俺は橋本の将来性に期待していた。
俺には現在の能力も、将来どこまで伸びる可能性があるのかも分かる。
橋本についても、何度もその数字を見てきた。
だが、最近の橋本が何を考えていたのか。
何に悩み、何を望んでいたのか。
そんなことは、まったく知らなかった。
俺が見ていたのは、橋本という人間のほんの一部分だったのだ。
◇
「橋本が辞めるんか……」
岡本さんに話をすると、しばらく黙り込んでしまった。
「はい。もう本人の意思は固いようです」
「そうか……」
岡本さんは深く息を吐いた。
「最近、試合に出る機会が減っとったのは確かや。大久保が入ってからは、特にな」
「やっぱり、それが理由なんでしょうか」
「分からん。本人からは何も聞いとらんからな」
岡本さんは首を横に振った。
「ただ、もっと話をしとけばよかったとは思うわ」
いつになく沈んだ声だった。
俺は岡本さんの横顔を見た。
岡本さんは、かつて高校サッカーの監督を務めていた。
その頃、厳しすぎる指導が問題になったことがある。
本人もその経験を重く受け止め、指導のあり方を見つめ直してきた。
京南FCでは、選手を威圧したり、頭ごなしに叱りつけたりするような指導はしていない。
選手たちからも慕われている。
俺も、岡本さんが監督でよかったと何度も思ってきた。
「昔はな、選手に厳しくしすぎたんや」
岡本さんが、ぽつりと言った。
「はい」
「自分では、選手のためやと思っとった。でも、そうやなかった。だから、ここでは同じことを繰り返さんようにしてきたつもりや」
「それは、できていると思います」
「せやけどな」
岡本さんは、少し間を置いた。
「厳しくせんかったら、それでええってわけやなかったんやな」
俺は何も言えなかった。
「橋本が何を考えとったんか、俺には分からん。悩んどったんかどうかも、正直なところ分からん」
「そうですね」
「でも、毎日のように顔を合わせとったんや。もうちょっと話を聞く機会くらい、作れたんちゃうかと思うわ」
岡本さんは、悔しそうに言った。
今回、岡本さんが橋本に何かひどいことをしたわけではない。
むしろ、選手たちのことを大切にしてきた監督だ。
それでも、橋本が去ることにショックを受けている。
俺も同じだった。
ただ、俺の場合はもっと単純だ。
橋本が今どんな状況なのか、気にかけることさえしていなかった。
「岡本さん、僕も橋本のこと、全然見ていませんでした」
「あんたは社長やろ。会社全体を見なあかんのに、選手一人ひとりのことまで全部把握するんは無理や」
「そうなんですけどね」
その言葉は正しい。
会社の規模が大きくなれば、社員全員と日常的に話すことなどできない。
だからこそ、部門ごとに責任者がいる。
だが、仕方がないからといって、何も感じないわけではなかった。
「もっと何かできたんじゃないかって、思ってしまいます」
「……俺もや」
岡本さんは、静かにうなずいた。
◇
橋本の退職は、チームメイトたちにも驚きを与えた。
「会社も辞めるんですか?」
長谷川は、信じられないという顔をした。
「ああ。本人が決めたことだ」
「そうですか……」
長谷川はしばらく考え込んでいた。
「最近、あまり試合には出ていませんでしたけど……そんなに悩んでいたんでしょうか」
「それが、分からないんだ」
「俺も、聞いたことはなかったですね」
長谷川は視線を落とした。
「キャプテンなのに、何も知らなかったな……」
「長谷川が悪いわけじゃないよ」
「それは分かってます。でも、もっと話を聞いてやればよかったです」
長谷川は、チームのまとめ役として長く頑張ってくれている。
ただ、彼自身も選手だ。
自分の仕事も、練習も、試合もある。
すべてのチームメイトの悩みを把握するなど、簡単なことではない。
それでも、長谷川は後悔しているようだった。
そのとき、近くで話を聞いていた田中が口を開いた。
「あ、そういえば……」
「どうした?」
「前に橋本が言ってたことがあるんです」
俺たちは田中を見た。
「練習してるのに、全然うまくならないって」
「いつ頃の話だ?」
「結構前ですね。正確には覚えてないんですけど」
「それで、何て答えたんだ?」
「誰でもそういう時期はあるだろうって。あんまり深く考えずに返しちゃいました」
田中は、少し困った顔をした。
「今思えば、もうちょっと話を聞いておけばよかったのかもしれません」
俺は、その言葉を聞いて考えた。
橋本は、自分の成長に悩んでいたのだろうか。
大久保が加入したことで、その思いが強くなったのかもしれない。
だが、それはあくまで想像だ。
本人が詳しい理由を話していない以上、俺たちには分からない。
「田中が気にすることじゃないよ」
俺はそう言った。
「そのときは、ただの何気ない会話だったんだろう?」
「はい」
「だったら、仕方ないさ」
そう言いながら、自分にも同じ言葉を向けているような気がした。
仕方がない。
確かに、そうなのかもしれない。
だが、それで終わらせていいのだろうか。
◇
数日後。
俺は改めて岡本さんと話をした。
「岡本さん、少し考えたことがあるんです」
「何や?」
「サッカー事業部でも、定期的に選手と面談する機会を作りませんか?」
「面談?」
「はい。うちの会社では、社員と上司が目標や仕事の状況について話し合う機会を設けていますよね」
「ああ、MBOとかいうやつか」
「そうです。
選手も当然社員なのでITの仕事面での面談は定期的にしています。
でもそれはあくまでITや会社員としての面談です。
そこでは少し話にくいこともあると思うんです」
岡本さんは興味深そうに俺を見た。
「例えばITとサッカーの両立についてとか……
選手からすると言いにくいですし、
ITの方の所属長としても詳しく聞くわけにもいかない」
「なので、半年に一回、選手全員と個別に話をするんです。
今の目標とか、成長についてどう感じているかとか、困っていることがないかとか」
「なるほどな」
「もちろん、選手の能力を評価するためだけじゃありません。
本人が何を考えているのか、聞くための時間です。
選手たちも年を重ねて結婚する選手も増えてきている。
環境が変わったことで考えも変わってきているはずです」
俺は続けた。
「基本は岡本さんと選手の一対一で考えています。必要なら、僕やほかのスタッフとも話せるようにしましょう」
「俺には言いにくいこともあるやろうしな」
「はい。特に田中なんか、岡本さんの実家の農作業に不満があっても、岡本さんには言いにくいですもんね」
「そら、そうやな」
岡本さんは少し笑った。
「それに、半年に一回だけじゃなくて、希望があればいつでも面談できるようにしたいです」
「それはええな」
岡本さんはうなずいた。
「今までは、何かあったら選手の方から言うてくれると思っとった。でも、機会がなければなかなか言い出せんこともあるやろうしな」
「そうですね」
「こっちから話す機会を作るんは、大事かもしれん」
俺は少し安心した。
もちろん、面談制度を作ったからといって、すべての問題が解決するわけではない。
選手が本当のことを話してくれるとは限らないし、話を聞いたところで、どうにもできないこともあるだろう。
それでも、何もしないよりはいい。
「岡本さん、負担が増えてしまいますけど、大丈夫ですか?」
「半年に一回やろ? それくらい何とかするわ」
岡本さんは笑った。
「それに、監督の仕事は試合に勝つことだけやないしな」
「ありがとうございます」
「ただな、社長」
「はい?」
「面談をやったからって、選手のことが全部分かるようになるわけやないで」
「ええ。それは分かっています」
「でも、話すきっかけくらいは、こっちから作ってやらんとな」
俺はうなずいた。
この面談があったとしても橋本の退職を防げたかどうかは分からない。
同じ結果になっていたかもしれない。
それでも、今回のことを何もなかったように終わらせたくはなかった。
もしも次、橋本と同じように悩む選手が出てきたときに、この面談が少しでも話すきっかけになり、少しでも悩みが前向きになればいいと思う。
それでも、これから先、クラブを離れる選手は出てくるだろう。
そのときは、本人が納得して次の道へ進めるように。
そして俺たちも、なるべく後悔しないように、できることを、一つずつ増やしていきたい。
◇
橋本が退職した後も、京南FCの活動は続いていく。
練習場では、今日も選手たちがボールを追いかけていた。
大久保が中盤でボールを受け、前線へパスを送る。
板垣が走り出す。
長谷川が声を張り上げ、守備陣に指示を出す。
岡本さんはピッチの脇で選手たちの動きを見つめていた。
いつもどおりの光景だった。
一人の選手がいなくなっても、チームは前へ進んでいく。
それは組織として当然のことだ。
だが、俺には少し違って見えた。
俺はこれまで、選手の可能性を見つけることに力を注いできた。
誰がどこまで成長できるのか。
どのポジションが向いているのか。
どうすれば、その能力を最大限に発揮できるのか。
それが分かることは、俺の大きな強みだ。
実際、京南FCはその力も利用しながら、ここまで成長してきた。
しかし、人間は数字だけでできているわけではない。
今の能力も、将来の可能性も分かる。
それでも、その選手が何を考えているのかは分からない。
どんな夢を持ち、何に悩み、どんな人生を選びたいのか。
それは、本人と話さなければ分からないことなのだろう。
いや、話したところで、すべてを理解できるとは限らない。
橋本がなぜ会社を辞めたのか。
結局、俺には分からなかった。
ただ、今回のことで一つだけ気づいたことがある。
俺は、橋本のことをほとんど知らなかった。
これからも、すべての選手のことを理解できるわけではないだろう。
それでも、知ろうとすることはできる。
俺はもう一度、練習場に目を向けた。
京南FCは、少しずつ強くなっている。
だが、強いチームになることと、いいクラブになることは、きっと同じではない。
その両方を目指していかなければならない。
橋本のいなくなった練習場を見ながら、俺はそう思った。




