ウワキムンの不倫相手は次期女王だから、ざまぁします
山の麓に子爵の屋敷がある。遠くの森から湿った土の匂いが流れてくる。庭先ではレンゲ草が、すでに花から乾いた種へと姿を変えて揺れる。
「フーリンネ様は、いつも、いらっしゃるはずだけど」
第一王子ワカーレルが、妃フーリンネと住む屋敷だ。
「あの女はなー。たまに貴族の婦人たちを招くぐらいが仕事やでー」
サオリの言葉は、風に乗って届いた朝の小鳥のさえずりみたいに軽い。
「そうだよね。神話に出てくる有閑マダムってやつだよ」
馬車から下りると、靴底に砂利の脆く崩れる感触が伝わった。足元で小さく、ぱり、とレンゲ草の種が弾けた。鉄の門は半ば開かれていたが、守衛は立っている。顔見知りで用事を聞くこともしないが、軽く会釈して門を通り抜けた。
玄関の前でフーリンネは馬車に乗り込むところだった。淡い光を受けたオレンジ色のドレスは落ち着いた色合いだ。お互いに軽く会釈を交わすと歩み寄る。
「ロメーヌ様、お久しぶりね。朝からご用事ですの」
切れ長の目が一度またたく。その奥に、わずかに歓迎しない影が揺れた。
「先日はウワキムン様がお邪魔していましたでしょうか」
(結婚したら、ウワキムン様は子爵となり、私も妃として、この屋敷へ住む予定だったからね)
彼がこの領地へ来る理由は、いくらでも取り繕える。ワカーレルはすでに王の後継者として城へ移ることが決まっていた。
フーリンネは視線をわずかに泳がせる。まつ毛が揺れ、朝の光を避けているようだ。
「ほかの方々も。侯爵家の方々がお見えになって、本当ですよ」
自分を納得させるように小さく頷く。
「酒を飲みながら話しておられました。奥座敷で雑魚寝です。じつは、よくあることですわ。朝方に帰られましたけど」
酒を飲んで夜を過ごす言い訳は、ウワキムンの常套手段だった。
(どこかへ出かけたか知りたいよね)
「繁華街へ出かけたとか、ご存じないでしょうか」
「さあ。二階にいましたから。また探偵ごっこですの」
わずかに肩をすくめる。その声には、軽い皮肉が混じる。
(あれこれ聞きたがるのは知ってると思う。匂いのことまでは言えないよ。でも、次期女王だし、縁談のことも知ってるはず)
「そうだ。ブイバン王国の王女様の話、お聞きになってますかしら」
「昨日で決まったようなことを聞きました。それで、なにか、ざまぁのために浮気を調べてるとか」
フーリンネの声が少し低くなる。唇が乾いたのか、舌で軽く湿らせた。
(ちょっと時期がずれてるけど……そうか。今朝は使者と正式に決めたんだ。やはり仕返しを心配してたんだよ)
ウワキムンがすぐに婚約破棄を言い出せなかった理由は理解できる。誰かが伝えるべきことであり、仲人を通すのが常識だからだ。
「大袈裟なことではございませんが、けじめはつけたいと思いまして」
言葉を選びながら答えると、口の中にわずかな苦味が残る。
(自分のことを調べるとは思わなかったよ)
フーリンネはそれを「ざまぁ」の話だと受け取ったらしく、ふっと小さく息を吐く。
「そうですわね。温泉宿でお聞きになればよろしいですわよ」
髪をかき上げる。その瞬間、強く立ちのぼるのはフローラルシャンプーの香り。清潔で華やかだが、どこか不自然なほど濃い。
「私も、夜中に殿方が何をしているのかは存じませんので」
付き放した言い方になり、美容室へ行く予定らしく、馬車へ乗り込んだ。御者が手綱を鳴らす音が乾いて響き、馬がいなないた。革の匂いと獣の体温が朝の空気に混じる。フーリンネは、ゆっくりと屋敷を後にした。
サオリが、わずかに距離を取って立っていた。ロメーヌは、その理由を知っている。
(フーリンネ様は親が侯爵家だし。家柄はサオリより下だからね)
公爵家のサオリにとって、次期王女であるフーリンネは、敬うべきでありながら扱いにくい存在らしい。近づけば角が立つ、離れれば冷たい、そんな均衡の距離だ。フーリンネも話しかけることをしなかったし、お互いに関わりたくもないようだ。
(敬語をなー、使こうてられへんでーって言ってたし)
それでもサオリが、玄関から出てきたメイドと何か話していた。ロメーヌも歩み寄る。見慣れた竹の格子窓、何度も訪れた子爵屋敷だ。ここに来るたびに、洗い立てのリネンの匂いが漂っていた記憶がよみがえる。
「マヤー、お久しぶり」
「ロメーヌ様、お久しぶりでございます。来年はこの屋敷においでいただくと」
やわらかな声。けれどその言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。
「それだけどさ」
婚約破棄の話を告げると、マヤーの表情が曇る。わずかに息を呑む音が聞こえた。
「ウワキムン様は頻繁においでなさいます。ただ、ワカーレル様が戦線へ赴いておられるときに不謹慎と思います。畏れ多くて言えませんが」
風にさらわれそうなほどの小声だ。王族や貴族の批判など、本来なら口にできない。
「常識のない貴族や王族もいるよね」
(ほんと、学院で何を習ったのかしら)
王族や貴族は厳しく躾られるが、習得していない者は多い。ロメーヌは庶民と気軽に話せるし、歓迎もする。だから、メイドもこうして本音が零れる。
「そうだ、ずっと屋敷にいたのかしら、ウワキムン様は」
(メイドならわかるかもしれない)
「夜勤のメイドへ聞こうかー。交代やろー。今はなー」
サオリが肩をすくめる。だが、ふと視線を落とし、気がかりらしく、しゃがみこんだ。洗濯物を入れる紙袋が足元に置かれている。
「フーリンネ様のシーツでございます」
マヤーが運んできたらしい。
「匂わへんかー」
「なにか……」ロメーヌも膝を折る。
「あれっ、この匂いは」
鼻先に触れた瞬間、甘く粘る香りがまとわりついた。
(貴族服についていた匂いと似てるけど)
「寝室では香水をお使いのようです」
マヤーは慣れた様子で言うが、眉をひそめる。鼻をつく強さなのだ。匂いがきつくて、と愚痴までこぼす。
「禁忌の香水やでー、たぶんなー」
低く、含みのある声。
「調べよう、開けていいかしら、マヤー」
「探偵ごっこでございますか」
子供の他愛ない遊びを見守るように微笑んだ。
「今日中にクリーニング屋へ持っていけばよろしいので」
気軽に、遊びへつきあうような言い方だ。
サオリがシーツを指先でつまみ、腕を伸ばして遠くへ持っていくように広げる。空気が動き、香りが一気に立ち上った。
「汗かー、まだ、湿っとるでー」
立ち上る禁忌の香水は、生暖かい肉の気配で息苦しくさせた。
「いやだ、変な想像をさせる匂いだよ」
「普通は寝られへん匂いやでー。やはりアレが目的かー」
その言葉に、空気が重く沈む。女が男を誘惑する匂いだ。
(寝室なら、ラベンダーや森のような穏やかな香りにするはずだけど)
眠りではなく、別の何かを誘う香り。
「ワカーレル様は戦場でしょ。まさか、ほかの男とねー。調べてみよう」
ロメーヌは裾の内ポケットから眼鏡を取り出す。金属の硬い感触が指に伝わる。
(貴族のだれかが、寝室へ行ったのかしら。えっ)
布の繊維に絡みついた一本の髪。光を受けて、白く鈍く光る。サオリがシーツを剥きだしのままにして紙袋の上に置くと、眼鏡を取り出す。
「これやなー。ブリーチで白っぽいし、瓢箪から駒やでー」
サオリは言ってから、眼鏡をずらして掛けなおす。訪問していたとは言っていたし、ウワキムンが重要参考人になった。
「あの野郎は。この長さといい、めったにいないよね」
(もう、野郎で十分だよ。そりゃね、惚れてるっていえばウソだけど。付き合ってる以上は誠意が必要でしょ)
愛を育てるつもりではいた。浮気もあるだろうと予感はしたが、いざ現実となれば、おおらかな気持ちは吹っ飛んだ。
「匂いが残る、早いうちがいいでー」
「そうだね。あいつの貴族服と比べてから、証拠を叩きつけてあげる」
マヤーに借りる旨を告げると、彼女は開けたまま目と口を忙しく動かした。
「破廉恥な。恥知らずでハレンチな」
気持ちに言葉が追いつかない様子だ。
(次は女王になるっていう人が、なんで)
ロメーヌの胸に、ひとつの疑問が沸く。義姉として、頼りにしたい女性だった。距離を置くような女だったが、見下すとかはしなかったし、大人の距離感と思ってもいた。
「どうして、悪役令嬢になりたいのかしら」
「それなー。真実の愛かもしれへんでー。流行ってたようやなー」
「じゃあ、さ。ざまぁも覚悟よね」
(ちょっと、お灸を据えるぐらいだから)
王族だし、女王様からの罰も厳重注意ぐらいと考えた。それだから、尚更ロメーヌの婚約解消の気持ちは変わらない。
「こちらから婚約破棄させてもらうよ。慰謝料もたっぷりもらうからね」
「まずは急ぐでー。王城へクリーニング屋が来ないうちになー」
守衛にトランペットで市民馬車を呼んでもらい、乗り込んだ。馬車ターミナルは五百メートルぐらいの間隔であるし、トランペットは信号として、緊急でも使える優れ物だ。
・
フーリンネは大通りに面した駐馬車場で馬車を降りる。ロメーヌたちのことが気に入らないらしく、小さく舌打ちを漏らした。ちょこまか探偵ごっこをするのを迷惑にも感じていた。距離も置いていたのはそのせいだ。周囲の目を避けるように日傘で顔を隠し、足早に歩く。やがて、天蓋の高い旅行用の大型幌馬車へと近づいた。
「オコンはおるか」
カーテンで仕切られた車内に声をかける。
「ここに」狐目の女が姿を現した。服装は令和時代のリクルートスーツを思わせる。
「ヒガシ湖の手配は抜かりありません」
彼女はふと口を閉ざし、細い目を左右に走らせて周囲を警戒する。燕尾服を着る会社員風の男が二人、昼食の話題を口にしながら通り過ぎた。見渡せば、子爵領はこぢんまりとした温泉町で、大通りには温泉宿が軒を連ねる。
「ボーチラ二人を連れて、明日の夕方にはお屋敷に到着いたします」
小声で続けるオコン。ボーチラとは国を追放された乱暴者の意味だ。フーリンネは日傘を左手に持ち替え、頷きながら声を落とす。
「あの二人が、御庭番に疑われたと情報が入ったから」
「結構です」オコンはフーリンネの説明を遮る。
「金さえ貰えれば。任務を決行するのが役目だから」
あくまでも警護の仕事だと立場だ。建前として犯罪へ関わりたくないようだ。
「そうだったね」
要件だけを話すフーリンネ。
「ウワキムン様のことを嗅ぎ回っている女の子たちがおる。用心して、明日は温泉宿『マツ屋』に泊まりなさい」
近くの宿を示すように顎を向ける。立ち上る白煙が、背後の森を朧に霞ませていた。オコンは微笑みを浮かべる。
「承知いたしました。つきましては、宿代を前払いで頂戴したく」
真剣な表情をしていたオコンも金の話題では商売人の顔になる。
「五百マニーで足りますかしら。食事や遊興費は後から請求しておくれ」
フーリンネは日傘を肩にかけ、懐の財布から紙幣を取り出して手渡した。令和の感覚でいえば五万円ほどだろう。この界隈にはカプセルホテルのような格安宿も多く、休憩がてらの宿泊で食事や遊興費が別なら、十分に釣りが出る算段だ。
「気前が良いことで」
オコンの狐目が柔らかく丸まり、いかにも商売人らしい愛想笑いを浮かべる。
「ご利用いただき、ありがとうございます」
ヒガシ湖から侯爵領へ二人を護送する分の二千マニーは、すでに前払いで受領済みだ。オコンは、護衛も請け負う集団『女狐衆』の頭領である。
フーリンネが、何か思惑を含んだ表情で言う。
「安いものですね、いつも」
「副業ですから」
オコンは事もなげに澄まして言う。女狐衆の本業は、魔物が徘徊する森の通行護衛だ。人里離れた場所には凶悪な魔物も多く、旅人や行商人からの依頼が絶えない。彼女らにとって、街中のいざこざなど他愛ない仕事だった。
フーリンネはさらに声を潜め、本題を切り出す。
「さっき話した女の子たちだがね。どこまで事情を掴んでいるか調べておくれ。あの二人が握っている証拠をデタラメだと揉み消し、私の身辺に近づけないよにできないかね?」
「お安い御用で。それでしたら、明日にでも女狐衆から専用の護衛を手配しましょう。一日、百マニーになります」
オコンは期待に満ちた眼差しで手を差し出す。すべて前金、それが女狐衆の流儀だ。
「相変わらずちゃっかりしているね。まずは十日分」
状況次第では延長もあるはず。一週間ぐらい何事もなければ大丈夫だろう、とフーリンネは踏んだらしい。
「それでは。連絡はフォックス薬店で承りますので」
「幅広くお仕事をなさってますね。女狐衆を侯爵家のお抱えと相談があったはずだけど。良い話じゃないかい」
「いえ。権力から距離を置くのが、女狐衆の伝統ですから」
言うとオコンは御者に合図し、ヒガシ湖のあるオキマリパタン公爵領へと向かっていった。女狐衆は、古代から魔女のミトコンドリアを受け継ぐ家系だったが、混血化した現在は民族を分ける意味もない。
ロメーヌたちが匂いの正体を知ってしまった。しかし、王家へ報告することができるのか。フーリンネは、明日では遅い状況になる危機感が、未だ無い。美容室などという呑気な場所に向かった。
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ロメーヌとサオリは王城へ引き返し、二の丸の前で馬車を下りる。城壁の上には虎か猫か判別の付かない王家の紋章が描かれた旗がはためき、布の擦れる音が風に乗って届く。遠くで天守閣が昼前の陽を受けて白くまぶしい。かすかに温まった石の匂いが立ちのぼっている。
「まだクリーニング屋は来てないはずだよ」
自分に言い聞かせるように呟くと、口の中にわずかな乾きが広がる。サオリはそれでも落ち着かない様子で、シーツの入った紙袋を右手から左へ持ちかえる。
「取り返せるかー。一応はウワキムン様の所有物やしなー」
声は少しだけ固い。
「いまのところ婚約者の立場だよ」
言葉にすると、胸の奥をちくっと刺す痛みが湧いてくる。
(私も、利用できるのは使うから)
庶民のクリーニング屋は、まだ婚約破棄の話など知らないだろう。
「来たでー」
サオリがシーツの入った袋を両手で持って下げた。確かに、朝から動きっぱなしだし、疲れてもいる。
(最後の仕上げだからね)
いつもより、乗りが悪いのは確かだ。自分自身のことだからだろう。
「ちょっと待って、私、笑ってるかしら」
頬に手を当てると、こわばった筋肉が指先に伝わった。不倫されて平気な顔は、うまく作れない。それでも、唇の端を持ち上げて、貴族らしい柔らかな微笑みを形にする。喉の奥がひりつく。
「あのやろう、じゃなくて。ウワキムン様の貴族服をお貸し願えないかしら」
「よろしいですよ。あの、心苦しいんですけど、香水はほかの服へ匂いが移ります。一緒になさらないでいただきたいのですが」
声は控えめだが、はっきりとしていた。
(さすが商売人だよ。匂いにも敏感だね)
わずかに漂う香水の残り香だが、逆に際立つ。
「私の不注意です。ごめんなさいね」
頭を下げると、髪が頬に触れ、かすかに汗をかいたかと気づいた。よく晴れた初夏の正午前だ。
「いえ。お妃さまになられる方へ畏れ多い。メイドへお伝えくださいな」
丁寧な言葉に、少しだけ緊張がほどける。
(よしっ、うまくいった)
差し出されたスーツ袋を受け取る。布越しに感じる衣服の重みと、内側に閉じ込められた香水の甘い匂いが、探し当てた宝物に思えた。
門に掲げられた時計が、乾いた金属音とともに十一時半を告げる。鐘の余韻が腹にも響き、空腹がかすかに胃を刺激した。そろそろ昼食の時間だ。
「王家の食卓へ乗り込むわよ」
そんな無謀を選ぶ、恐れ知らずの十八歳。
「今がなー。一番楽しいときやでー」
玄関へ続く煉瓦のアプローチを踏みしめる一歩ごとに、心臓の鼓動が少しずつ速くなる。常識の通じない探偵ごっこは、いよいよ大詰めを迎えていた。




