第82話:淳志、渡し賃を払わない
向こう岸の連中は、とっくにこっちに気づいていた。
渡しの舟は一艘残らず向こう岸に引き上げられていて、岸辺には弓を持った足軽がずらりと並んでいる。数えるのも面倒なくらいだ。
「北条の物見と間違われておりまするな」
右近が青い顔で言った。北条の物見なら、十騎くらいでうろうろしていてもおかしくないってことか。
まあ、間違われたままってのも気持ちが悪い。俺は馬を一歩前に出して、川向こうに声を張った。
「上野の高梨の寄騎、小鳥遊だ! 鹿島に行くだけなんで、通してくれ!」
しばらく向こう岸がざわざわしていた。それから、陣幕の奥から、派手な具足をつけた若い男が出てきた。二十五、六くらいだろうか。周りの侍たちが、さっと道を空けている。
「里見の嫡男、義弘様にござる」
右近が小声で教えてくれた。親父の義堯から、北条との境目を任されている若大将なんだそうだ。
義弘は岸辺まで出てくると、こっちの十騎を端から端まで眺めて、鼻で笑った。
「上野の田舎侍が、たった十騎で里見の地を抜けると申すか。面白い。馬と具足をそこに置いて、裸で泳いで渡るがよい。それが里見の渡し賃よ」
向こう岸で、どっと笑い声が上がった。
生意気だなあ。
「小鳥遊殿」
後ろから、勘解由がやけに落ち着いた声で言った。
「仕掛けられるのであれば、まずは正式な名乗りを上げられませ。先ほどのは、いささか略式に過ぎまする。高梨の名代として恥ずかしくなきよう……」
源三郎が、馬の上で吹き出した。
「勘解由殿、それどころではござらぬかと」
横を見ると、小次郎はまだ刀も抜いていなかった。手綱を握ったまま固まっている。
「……名乗りは、向こうに着いてからな」
俺は馬の腹を蹴って、浅瀬に入った。
◇
水は馬の膝くらいだった。右近の言った通り、ちゃんと浅いところを選べば渡れるらしい。
向こう岸から、矢がばらばらと飛んできた。
気がつくと、権之丞が黙って俺の背中側に馬を寄せていた。何本か飛んできた矢を、刀で払い落としている。相変わらず一言も喋らない。
ひゅん、と後ろから音がして、向こう岸で弓頭らしい男がひっくり返った。太助だ。揺れる馬の上から、よくもまあ当てるもんだ。
俺は収納から握り拳くらいの石を一掴み出して、岸辺の弓隊に向かってばらまいた。
石が当たったところから、足軽たちがばたばたと倒れていく。具足の上からでも、骨くらいは簡単に折れる。二度、三度とばらまくと、弓隊はもう弓を放り出して逃げ始めていた。
「退け! 砦に入れ!」
義弘の声が聞こえた。川沿いの少し高くなったところに、丸太で囲った砦がある。義弘たちは、そこに逃げ込んで門を閉めた。
◇
岸に上がって、砦の門の前に立った。
丸太を組んだ門で、それなりに頑丈そうだ。上の櫓から、まだ矢が飛んでくる。
俺は石を一つ出して、振りかぶって、門のど真ん中に撃ち込んだ。
どかん、と音がして、丸太が一本へし折れた。二発目で隣の丸太も折れて、三発目で門がまるごと内側に倒れた。
「旦那の後ろに続けぇ!」
五郎が吠えて、十騎がそのまま砦の中になだれ込んだ。
中はもう大騒ぎだった。弥兵衛が「固まるな、二人ずつで動け!」と若い連中を怒鳴りつけている。新八は源三郎の横にぴったり張りついていて、源三郎の方は、なぜか楽しそうに笑いながら槍を振り回していた。
与一郎は、俺のすぐ後ろにいた。敵を斬り払いながらも、目だけはずっと俺の方を見ている。親父を討った男の強さを、本当にここで盗むつもりらしい。真面目な奴だなあ。
小次郎は、勘解由に襟首を掴まれて引きずられていた。
「小次郎様、高梨の御名に恥じぬよう、せめて刀をお抜きなされ!」
「ぬ、抜いておる! 抜いておるぞ、勘解由!」
確かに抜いてはいた。鞘ごと抜けていたけど。
◇
本丸、っていうほど立派なものじゃないけど、砦の一番奥の小屋の前で、義弘が槍を構えて待っていた。
「おのれ、化け物め……里見義弘、推して参る!」
腕に自信があるだけあって、鋭い突きだった。北条と何年もやり合っているのは、伊達じゃないらしい。
俺はその穂先を、素手で掴んだ。
「なっ」
義弘が槍を引こうとしたけど、びくともしない。俺はそのまま、槍ごと義弘を持ち上げて、地面に放り投げた。
どさっ、と義弘が仰向けに転がった。起き上がろうとしたところを、胸を踏んで押さえつける。
「渡し賃って、いくらだったっけ」
収納から脇差を出して、首筋に当てた。周りの里見の侍たちが、悲鳴みたいな声を上げている。
「ま、待て! 待て、良いことを教えてやる!」
「命乞いなら、間に合ってるけど」
「違う! 高梨の話だ!」
俺は、脇差を止めた。
義弘は荒い息のまま、早口でまくし立てた。
「北条の陣に、里見の者を忍ばせてある。そこから報せが来た。武田が碓氷を越えて、上野に入ったとな。北条は武田と示し合わせて、見て見ぬふりをしておる。狙いは長野の跡と、高梨よ」
後ろで、誰かが息を呑む音がした。
「お、叔父上が……」
小次郎だった。もう半泣きになっている。いつもなら小言を言うはずの勘解由も、今度ばかりは何も言わずに、小次郎の肩に手を置いていた。
碓氷の向こうで、武田の動きがどうも妙じゃ。
政継の、あの困ったような顔が浮かんだ。あの人は、ちゃんと分かってたんだなあ。分かってて、甥っ子まで付けて俺を行かせたんだ。
鹿島までは、まだ何日もかかる。上野に引き返すのにも、同じくらいかかる。
ミクの手がかりは、やっと掴んだ初めての一本だった。でも上野には、藤次郎と小太郎と甚九がいて、婆さんの村があって、甚八の墓がある。
「殿」
源三郎が、馬を降りて俺の横に来た。いつもの笑い顔じゃなかった。
「まずは、話を全て聞きましょう。動くのは、それからでも遅うございませぬ」
俺は、義弘の胸から足をどけた。
「……その話、詳しく聞かせてもらおうか」




