第78話:美玖比売、鮒鮨を食べる
観音寺からの帰り道は、雪でした。
千代ちゃんは輿の中で、私の袖の端っこを握ったまま眠っちゃってるんです。簾の隙間から手だけ出して、きゅっと掴んでるんですよね。離したら起きちゃいそうなので、私は馬を降りて、輿の横を歩いて帰ることにしました。
弥平次が「比売さま、それがしの馬に」って言ってくれたんですけど、首を振りました。歩くの、嫌いじゃないですし。
内蔵助は、帰りの道中ずっと難しい顔をしてました。
「比売さま。三雲の当主の目、ご覧になりましたか」
「見ましたよー。暗い目でしたね」
「一族の者を、あの場で何人も失うております。あれは、いずれ何か仕掛けてまいりましょう」
「そうしたら、その時に潰せばいいじゃないですか」
内蔵助は、また胃のあたりを押さえてました。最近、この人がお腹に手を当ててない時間の方が短い気がします。
輿の中から、千代ちゃんの小さな寝息が聞こえてました。
◇
篁のお城に戻って、三日もしないうちに、お客さんが来るようになったんです。
六角さんが千代ちゃんの家来になったって話が、もう近江じゅうに広まってるみたいなんですよね。甲賀の小さな家から、蒲生のお爺さんの縁者、伊賀との境の国人さんまで、毎日誰かしらが挨拶に来るんです。
千代ちゃんは当主として上座に座って、一人ずつ挨拶を受けてます。私はその斜め後ろ。
最初の二日くらいは、千代ちゃんもちょっと緊張してました。でも三日目くらいからは慣れてきたみたいで、相手の口上が長いと、ちらっと私の方を見るんですよ。
ある日、ずいぶん年配の国人さんが、ご先祖さまの武功から話し始めたことがあったんです。曽祖父がどうの、祖父がどうの、って。
千代ちゃんが、わざと聞こえるくらいの声で言いました。
「ミク姉さま、この方のお話、長うございますね」
国人さん、真っ青になって、口上を半分で切り上げてました。
千代ちゃん、こういうの覚えるの早いですねぇ。公の場で「ミク姉さま」って呼ぶのも、すっかり板についてきました。私が誰の後ろにいるのか、来る人みんなに分からせてるんですよね。
広間の隅には、いつも弥平次が控えてました。お客さんたちは、顔の傷をちらちら見ては、目を逸らすんです。あれが観音寺で戸塚の当主を斬った男か、って、もう噂になってるみたいなんですよ。
中には、変わったことを言い出すお客さんもいました。
「手前の倅は今年で十二。千代姫様の婿にいかがかと……」
千代ちゃんは、にこりともしないで答えました。
「千代の婿は、ミク姉さまがお決めになります。ミク姉さまのお眼鏡にかなうよう、まずは手柄をお立てなされませ」
国人さん、私の方を見て、それから慌てて平伏してました。
別に、決めるつもりはないんですけどね。でも、千代ちゃんがそう言うなら、そういうことにしておきましょう。
◇
お客さんは、みんな贈り物を持ってくるんです。反物とか、太刀とか、お米とか、銭とか。
それを片っ端から帳面につけていくのが、一郎太さんです。筆算を覚えてから、本当に速いんですよ。贈り物が運び込まれるそばから、砂のお盆じゃなくて紙の帳面に、さらさら数字を書いていくんです。
「比売さま、本日の分、締めて銭に直しますと……」
「あ、食べ物は別にしておいてくださいね」
私は、食べ物の山を選り分ける係です。干し鮑、昆布、お餅、干し柿。干し柿はもう数えましたよ。今日だけで四十二個です。
そのうち、蓋をした桶が一つ出てきました。重たいんです。開けてみたら、その瞬間に、すごい匂いが広がりました。
「……これ、なんですか」
女中さんたちが、一斉に鼻を押さえて後ずさってます。
「鮒鮨にございます。近江の名物にて」
一郎太さんが、帳面から顔も上げずに教えてくれました。
あ、知ってます。教科書の写真で見たことあります。でも、匂いまでは載ってなかったんですよね。
せっかくなので、一切れ食べてみました。
口に入れた瞬間は、やっぱり匂いがすごいんです。でも噛んでるうちに、後からじわっと旨味が来るんですよね。酸っぱくて、しょっぱくて、ちょっとだけチーズみたいな味がします。
「……あ、美味しい」
千代ちゃんが、私の顔と鮒鮨を見比べてから、恐る恐る一切れつまみました。目をぎゅっとつぶって、口に入れて、もぐもぐして。
それから、目をまん丸にしたんです。
「……くさいのに、おいしゅうございます」
「ですよねー」
二人で、もう一切れずつ食べました。
ふと横を見たら、内蔵助がなぜか涙ぐんでるんですよ。
「どうしたんですか、内蔵助」
「いえ……先代の殿が、鮒鮨がお好きでございましてな。千代姫様が、同じお顔で召し上がっておられるので、つい……」
千代ちゃんの、お爺さまのことですね。
千代ちゃんは、鮒鮨を持ったまま、ちょっとだけ内蔵助の方を見てました。それから、もう一切れつまんで、内蔵助の前に差し出したんです。
「内蔵助も、お食べなさい」
内蔵助は、両手でそれを受け取って、しばらく食べられずにいました。
◇
そうやって、毎日お客さんが来て、贈り物が積み上がって、一郎太さんの帳面が厚くなっていくうちに、年の瀬になりました。
夜、縁側に出たら、また雪が降ってたんです。
去年の今頃は、アツシさんと一緒にいたんですよね。向こうの世界で、二人で焚き火を囲んで、龍のお肉を焼いて食べてました。アツシさん、焼き加減にはうるさいんですよ。
今年は、千代ちゃんと鮒鮨です。これはこれで美味しいんですけど。
アツシさんも、どこかで年を越すんでしょうか。
ちゃんと、美味しいもの食べてるといいんですけど。




