第75話:淳志、有名人に会う、そして殺す
年が明けて、雪が解け始めた頃に、箕輪から陣触れが来た。
武田の先手が碓氷の峠を越えて、西上野の村を荒らし始めたらしい。箕輪衆は兵を出せ、という話だ。
「行ってこい。高梨の名で暴れてこい」
政継は、困ったような顔で笑いながらそう言った。この人、だいたいいつもこの顔だなあ。
俺は浦部の兵を中心に百ほどを連れて、高梨の名代として長野の本陣に入った。浦部の当主として、小太郎も初陣でついてきている。具足が体に合ってなくて、歩くたびにがちゃがちゃ鳴っていた。
で、割り当てられたのが、崖下の細い沢筋だった。
武田が下りてくれば、真っ先に揉み潰される場所だ。地図を見ただけで分かる。
「高梨殿は家格だけは高いゆえ、一番槍の誉れを差し上げよう。四千石の小勢には、ちょうどよい死に場所であろう」
そう言って鼻で笑ったのは、沼尻主膳とかいう長野の重臣だった。五郎が後ろで顔を真っ赤にしている。
「はいはい」
俺は適当に頭を下げて、陣を出た。
こういうのは、どこの会社にもいるよなあ。新人に一番面倒な客を押し付けて、上手くいったら自分の手柄にするタイプだ。
沢筋へ向かう途中、俺の馬の轡を取っているのは甚八だった。浦部の領内の百姓の倅で、増田の連中に家を焼かれて、親を亡くしている。増田を潰した日から、頼んでもいないのに勝手に轡取りを買って出てきた、口数の少ない若い足軽だ。
「殿。ここで死んでも、おら、文句はねえです」
「死ぬなよ。お前が死んだら、誰が俺の馬引くんだ」
甚八は黙って、少しだけ笑った。
◇
武田の先手が沢に下りてきたのは、翌日の昼前だった。
まあ、結果だけ言えば楽な仕事だった。
先頭の足軽の列に、腕を払いながら石をばら撒く。列がまとめて崩れたところへ、騎馬武者が突っ込んでくる。そいつの胸にジャブを当てて、拳の先に岩を出す。馬ごと後ろに吹っ飛んで、後続を巻き込んで転がっていった。
最後に崖の上に回って、沢の出口に大岩を三つほど落としておいた。これで退路も塞がる。
浮き足立った武田の足軽を、甚八と五郎が槍を揃えて追い散らしていく。甚八は、黙ったまま誰よりも前に出ていた。
半刻もかからなかった。
戻ってきた甚八の腰には、武田の足軽の首が一つぶら下がっていた。
「殿。おら、一つ獲りました」
「おう。えらいな」
甚八は、相変わらず黙ったまま、でも耳まで赤くなっていた。こいつ、こういうところは分かりやすいんだよなあ。
◇
ところが、本陣に戻ってみたら、首実検の真っ最中だった。
上座の床几には、六十過ぎの痩せた爺さんが座っている。あれが長野業正か。その前で、沼尻主膳が武田の物頭の首を差し出して、得意げに言上していた。
「我が手の者が、沢筋にて討ち取り申した」
あれ、と思った。
その首、見覚えがある。さっき俺が馬ごと吹っ飛ばした奴だ。主膳の家来が、沢に落ちてたのを拾ってきたらしい。
「それ、俺が獲ったやつですけど」
主膳は振り返って、鼻で笑った。
「証はあるのか。高梨の小勢ごときが、武田の物頭を討てるはずがなかろう。没落の家の名代が、手柄欲しさに嘘をつくな」
後ろで、浦部の兵たちが悔しそうに唇を噛んでいる。甚八なんか、槍を握る手が白くなっていた。
ああ、そうか。
頭の中で、政継の困ったような笑い顔がちらっと浮かんだ。
「……俺のことはいいけどな。高梨を笑ったのは、まずかったな」
俺はすたすたと主膳の前まで歩いていって、ジャブを一発撃った。拳が胴丸に触れたところで、岩を出す。
主膳は陣幕ごと後ろに吹っ飛んで、そのまま動かなくなった。
本陣が騒然となった。長野の侍たちが、一斉に刀を抜く。
上座の爺さんだけが、床几に座ったまま眉一つ動かさなかった。
「秀綱。見えたか」
「……見え申した。拳が当たる刹那、拳の先に何か重いものが湧いており申した」
爺さんの脇から前に出てきたのは、四十半ばくらいの、穏やかな顔の男だった。
「上泉伊勢守秀綱にござる」
上泉。どっかで聞いたことがあるな、と思った時には、もう間合いを詰められていた。速い。
ジャブを撃つ。
男は首を少し傾けただけで、それを躱した。
躱された。この世界に来て、初めてだ。背中に冷たい汗がじわっと出る。
でもまあ、一発躱されたくらいで、焦ることもないんだよなあ。
俺は一歩下がって、腕を大きく払いながら、掌から握り拳ほどの石を立て続けにばら撒いた。百か、それ以上か。秀綱は刀で何個か弾いたが、さすがに全部は受けきれない。肩に、腿に、脇腹に石を喰らって、膝をついた。
その隙に、さらに距離を取る。
今度は思いっきり振りかぶった。全身で、腕を振り抜く。振り抜いた一点から、拳大の石をまとめて撃ち出した。
床几も、陣幕も、旗も、その向こうで刀を構えていた侍たちも、上座の爺さんも、まとめて薙ぎ倒された。
◇
静かになった本陣で、秀綱だけが、血まみれで片膝をついて、まだ息をしていた。
「へー、生きてるんだ」
そういや、上泉とか言ってたな。思い出した。剣聖とか呼ばれてた人だ。ゲームだか漫画だかで見た名前だ。
「俺でも聞いたことあるわ」
まあ、せっかく生きてたみたいだし、有名人だし、いいか。
俺が背中を向けて歩き出すと、後ろから、血を吐きながら絞り出すような声がした。
「……今、殺しておかねば、いつか必ずグエッ」
俺は振り返りながら、軽く手を振った。手が振り抜かれる一点で、牛ほどの岩を出す。手の速さのまま押し出された岩が、秀綱の胸から下を押し潰した。首から上だけが、岩の端からはみ出している。
岩の肌に、べったり血がついている。しまう気になれなかった。
「汚れたから墓石にやるわ、ソレ」
五郎が、恐る恐る寄ってきた。
「旦那ぁ。死に際の口上くらい、聞いてやってもよかったんじゃ?」
「だって、みんな逃げたじゃん。誰も聞いてくれてないのに、めんどくせえ」
実際、本陣の周りにはもう誰もいなかった。総大将が石の雨で潰れたのを見て、長野の兵は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
俺は、ぐしゃぐしゃになった本陣を見回して、ため息をついた。
「……まあ、喰っていいかって、聞いたしな」
口には出すなって言われたけど、やるなとは言われてないし。
五郎に言って、爺さんと秀綱の首を獲らせた。秀綱の首は、岩の端から出ていたおかげで綺麗なままだった。
「小太郎」
陣の隅で青い顔をして立っていた小太郎を呼んで、首桶を二つ押し付ける。
「足の速いのを三人連れて、これ持って高梨の城まで走れ。口上はこうだ。『長野勢に襲われ、やむなく打ち払い申した。援軍願う。後詰お願いいたす』」
「は、ははっ……え、襲われたのは、こちらにございまするか?」
「手柄を盗られて、高梨を笑われて、刀を抜かれたんだ。襲われたんだよ」
小太郎はしばらく口をぱくぱくさせてから、首桶を抱えて走っていった。がちゃがちゃいう音が遠ざかっていく。
「旦那ぁ。殿様、来やすかね」
「来るよ。首を見た時点で、もう共犯だからな。困った顔で笑いながら来るよ、あの人」
甚八が、黙って馬を引いてくる。俺はそれに跨った。
「さて、箕輪だな」
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