第74話:美玖比売、おかわりをねだる
大広間は、しーんとしたままでした。
床には戸塚の当主が倒れていて、その少し先には、割れた床板と、嫡男だったものが沈んでます。血の匂いが、ゆっくり広がっていくんですよね。
重臣さんたちは、誰も動きません。後藤さんも進藤さんも、目を見開いたまま固まってます。蒲生さんっていうお爺さんだけは、膝の上に手を置いたまま、じっとこっちを見てました。この人、ちょっと面白いですね。
そんな中で、千代ちゃんがすっと顔を上げたんです。
見てるのは、上座の義賢さんでした。
「六角様」
小さいけど、よく通る声なんですよ。
「先ほど、千代のことをお笑いになった方々がおられました。あの方々には、飼い主はおられるのですか?」
広間の空気が、ぴりっと変わりました。
だってこれ、要するに「あなたの家来は躾のなってない犬ですね」って言ってるのと同じなんですもん。千代ちゃん、こんな言い方どこで覚えたんでしょう。私、こういうのは教えてないはずなんですけど。
三雲さんの席の方で、何人かが顔を真っ赤にして腰を浮かせました。
「小娘が、言わせておけば!」
先頭の若い人が、脇差の柄に手をかけて、こっちへ踏み出してきます。その後ろから、三人、四人と続いてくるんですよね。
あ、これは駄目ですね。千代ちゃんに刃物を向けるのは、駄目です。
私は千代ちゃんの前に出て、先頭の人がちょうど脇差を抜き切ったところで、その胸に軽くジャブを当てました。拳が着物に触れた瞬間に、収納から花崗岩を出したんです。
その人の体が、後ろに向かって吹っ飛びました。すぐ後ろにいた二人を巻き込んで、三人まとめて襖を突き破って、隣の部屋まで転がっていっちゃいます。襖の向こうで、何かがいっぱい壊れる音がしてました。
岩はそのまま畳の上に残ってるので、ついでに掌を当ててしまっておきます。
残った人の一人が、脇差を振りかぶったまま固まってました。私は一歩踏み込んで、その人のお腹に掌を当てて、もう一回岩を出しました。今度は真横の柱まで飛んでいって、柱ごと、べきっていう嫌な音がしました。
それで、終わりです。
同じ頃、弥平次は戸塚の当主を斬った刀を下げたまま、上座の前まで走り込んでました。義賢さんの喉元に、切っ先がぴたりと止まってます。義賢さんの小姓さんが刀に手を伸ばしかけたんですけど、弥平次が目だけでそっちを見たら、手がそのまま止まっちゃいました。
「……動かれますな」
弥平次の声、ちょっと震えてましたけど、刀はちっとも震えてないんですよね。えらいえらい。
私はぱんぱんと手をはたいて、上座の方へ歩いていきました。
「えーと、六角さん」
義賢さんが、喉元の刀越しにこっちを見ます。顔色は真っ白なんですけど、目はちゃんとこっちを見てるんですよ。逃げようとも、叫ぼうともしないんです。
「千代ちゃんの家来になりませんか?」
広間のあちこちで、誰かが息を呑む音がしました。
近江の守護大名が、一万三千石の国人の、それも子供の家来になるんですもんね。この時代の人からしたら、あり得ない話なんでしょう。
でも私、別に無理なことは言ってないと思うんですよ。だって、ここにいる人たち、全員まとめて私に勝てないんですから。
義賢さんは、しばらく私の顔と、千代ちゃんの顔と、床の穴と、壊れた柱を、順番に見比べてました。
「……比売殿。一つ聞きたい」
義賢さんの目が、私の後ろの千代ちゃんに向きます。
「千代殿は、それほどの器で?」
そんなの、決まってるじゃないですか。私が口を開きかけたら、それより先に、後ろから千代ちゃんの声がしたんです。
「六角様が入ってくださるなら、千代はミク姉さまに色々と教わって、頑張って器を大きくいたします」
千代ちゃんは、自分の席に座ったまま、まっすぐ義賢さんを見てました。
「でも、先に入っていただかないと、入る場所がなくなってしまうかもしれませんよ? 今なら、一番いい場所が空いております」
あ、それ、私が言おうとしたことより上手ですね。
それに千代ちゃん、こんな大勢の前で「ミク姉さま」って呼びましたよ。重臣さんたちが、私と千代ちゃんを見比べてざわざわしてます。この子が誰の特別なのか、これで全員に分かっちゃいましたね。
義賢さんは、目を丸くして千代ちゃんを見てました。
それから、急に笑い出したんです。
最初は小さく、そのうち肩を揺らして、最後は上を向いて大笑いしてました。重臣さんたちが、おろおろして義賢さんを見てます。
「……親父殿なら、ここで腹を切るか、刺し違えるかしたであろうな」
笑いが収まると、義賢さんはぽつりと言いました。
「だが、儂は親父殿ほどの器ではない。それは儂が一番よう知っておる。勝てぬと分かっておる相手に刃を向けるほど、馬鹿でもない」
弥平次の刀を指先でそっと押しのけて、義賢さんは座り直しました。そして、千代ちゃんに向かって両手をつき、深く頭を下げたんです。
「六角左京大夫義賢。これより千代姫様にお仕えいたす」
しばらく誰も動けなかったんですけど、蒲生のお爺さんが最初に黙って頭を下げました。それを見て、後藤さんや進藤さんも慌てて後に続きます。
千代ちゃんは、ちょっとだけ目をぱちぱちさせてから、背筋を伸ばして答えました。
「……よしなに頼みます、六角殿」
うん、上出来です。
千代ちゃんの隣に戻って座ると、袖の端っこを、またきゅっと掴まれました。見下ろしたら、千代ちゃんの小さな手が、細かく震えてるんですよ。顔はちゃんと前を向いたままなのに、手だけがずっと震えてるんです。
そうですよね。まだこんなに小さいんですもん。
私はその手の上に、自分の手をそっと重ねてあげました。
「よくできました、千代ちゃん」
小さな声で言うと、千代ちゃんは前を向いたまま、ほんのちょっとだけ頷いてました。
「あ、それと」
私は、大事なことを思い出しました。
「さっきの羊羹、おかわりもらえます?」
義賢さんが、ぽかんとした顔でこっちを見ます。
「……は?」
「控えの間で出てきた、甘葛の羊羹です。すごく美味しかったので」
義賢さんは、少しの間黙ってから、また笑いました。今度は、さっきより力の抜けた笑い方でした。
「……誰か。比売さまに羊羹を持て」
私の後ろで、内蔵助が胃のあたりを押さえたまま、静かに膝から崩れ落ちてました。
◇
しばらくして、お盆に山盛りの羊羹が運ばれてきました。運んできた女中さん、床の穴と血だまりをよけながら、泣きそうな顔で歩いてくるんですよね。ちょっと悪いことしちゃいました。
一切れを千代ちゃんに、一切れを弥平次に渡してあげます。弥平次は刀をやっと鞘に……あ、鞘はないんでした。抜き身のまま膝の脇に置いて、両手で羊羹を受け取って、なんだか拝むみたいにして食べてました。
羊羹をもぐもぐしながら、ふと横を見たんです。
三雲さんの席に、一人だけ座ったままの男の人がいました。吹っ飛ばされた人たちと、目元がよく似てるんですよね。親子か、兄弟かもしれません。
その人は、さっきからずっと、何も言わずに頭を下げてるんです。
でも、その下から一瞬だけ見えた目が、すごく暗い色をしてたんですよ。
まあ、いいです。
今は、羊羹の方が大事ですから。




