第71話:美玖比売、観音寺へ呼ばれる
それから二月が過ぎた頃には、篁の蔵は戸塚の旧領の分も合わせた年貢でいっぱいになっていた。一郎太が新しいやり方で締めた帳面には、一粒の米の狂いもない。
一方、根須からは芳しくない噂ばかりが聞こえてくる。篁の使者を斬ってしまった以上、政直は戦支度を止められない。百姓を城の守りに駆り出したせいで刈り入れの手が足りず、年貢は例年よりずいぶん減ったらしい。それでも無理に取り立てたものだから、村々には不満が溜まっているという。
畑中一郎太の読み通りだった。
そして十一月の末、雪がちらつき始めた篁の城に、一人の使者がやってきた。
◇
六角家の使者っていうのは、ずいぶん立派な格好のおじさんでした。
広間の真ん中に座って、千代ちゃんと私と家臣さんたちをぐるっと見回して、偉そうに咳払いをするんです。
「近江守護、六角左京大夫義賢様のお言葉を申し伝える」
家臣さんたちが、いっせいに頭を下げました。
「一つ。篁家が戸塚家より奪いし所領、ことごとく戸塚家に返還すべし。一つ。根須家への手出し、六角家はこれを一切許さず。一つ。篁家当主千代姫、ならびに後見の者、来たる師走朔日までに観音寺へ参上し、御裁きを受けるべし」
読み上げ終わると、おじさんは書状を丁寧に畳んで「しかと承られよ」って言って、別のお部屋に下がっていきました。
それから評定です。
「……比売さま」
内蔵助が、こめかみを押さえながら口を開きます。
「六角様と申しますのは、この南近江一円を治める……」
「あ、知ってますよー」
私は、干し柿をかじりながら答えました。
「観音寺城の六角さんですよね。近江の守護大名で、そのうち織田信長に追い出されちゃうところ」
広間が、しーんとしました。
内蔵助が、ゆっくりとこっちを振り返ってます。
「……おだ、のぶなが?」
末席の一郎太さんが、おずおずと手を挙げました。
「尾張の織田弾正忠家の若殿が、たしか信長と……。先年家督を継がれましたが、大層なうつけ殿で、家中もまとまらぬと聞き及びまするが……」
あ、まだうつけなんだ。
「その方に、六角様が……?」
「あ、いえ、なんでもないです。今のはなし」
ちょっと言いすぎちゃいました。
「えーと、今って天文何年でしたっけ」
「に、二十三年にございますが」
「鉄砲が来たのが天文十二年だから……千五百五十四年ですね」
「せんご……?」
家臣さんたちが、そろって首を傾げてます。
ってことは、桶狭間もまだずっと先ですよね。武田信玄も上杉謙信も、たぶんまだその名前になる前。戦国時代のけっこう最初の方です。
……アツシさん、日本史とか弱そうですよね。今頃どこかで、ここ何時代だって頭抱えてるんじゃないでしょうか。ちょっと見てみたいです。
「ただ、教科書には国人さんの事情までは書いてないので、一郎太さん、今の近江の様子を教えてもらえます?」
「は、ははっ」
一郎太さんが、床に指で地図を描き始めます。篁は近江の南の甲賀郡。北西へ半日行ったところに観音寺山があって、山ごとお城になってる。北近江の浅井も今は六角に従っていて、将軍様は昨年、三好に京を追われて近江の朽木に逃げてる。だいたい、教科書の知識と合ってますね。
「それで、どうします?」
私が聞くと、内蔵助が平伏しました。
「観音寺へは、参らねばなりませぬ。守護の呼び出しを蹴れば謀反。近江中の国人が攻め寄せてまいりましょう」
「じゃあ、それ全部皆殺しにすれば……」
「比売さま!」
内蔵助の声、裏返っちゃってます。
まあ、いいですよ。観音寺のお城、山ごとお城って一回見てみたかったですし。
「分かりました。千代ちゃんも連れて行きましょう」
「なっ……! 敵の懐に千代姫様をお連れするなど……!」
「内蔵助。千代ちゃんを、私がいないお城に置いていくんですか? 留守の間に、また誰かが攫いに来たらどうするんです?」
内蔵助が、ぐっと詰まりました。
「私の隣が、一番安全なんですよ」
しばらく誰も何も言わなかったんですけど、千代ちゃんが小さな声で言いました。
「……内蔵助。千代は、ミク姉さまと参ります」
家臣さんたちが、いっせいに千代ちゃんを見ました。
家臣さんたちの前でそう呼んだの、初めてですよね、千代ちゃん。
内蔵助は、しばらく千代ちゃんの顔を見つめてから、深く頭を下げました。
「……承知、仕りました」
◇
出立の朝、弥平次が私の前で膝をつきました。
「比売さま。観音寺の広間では、刀を預けることになりまする。それがしの手元に残るのは、脇差一本のみ。もしもの時は、この身を千代姫様の盾とし……」
「あ、じゃあ収納にいっぱい入れていきましょう!」
「……は?」
私は武具蔵に行って、刀を十本と、槍を五本と、弓と矢を一揃い、ひょいひょいしまっていきました。
「何かあったら私の手元に出しますから、弥平次は好きなの取ってくださいね」
弥平次、口を半開きにしたまま固まってます。内蔵助が後ろで、深ーいため息をついてました。
◇
甲賀の山を下りて、湖の方へ開けた平野に出たのは、二日目の昼過ぎでした。
千代ちゃんの輿の脇で、馬の上から前を見上げます。
山が一つ、そびえてるんです。山肌のあちこちに石垣と曲輪が段々に積み重なってて、尾根から中腹まで、山そのものがお屋敷になったみたいに建物がひしめいてるんですよ。
「わぁ、大きいですねぇ」
隣で弥平次が、黙って脇差の柄に手を置いてました。




