第70話:美玖比売、千代に数を教える
次の日から、千代ちゃんのお勉強を始めます。
最初は、スクールバッグからノートを一冊出して、ボールペンで数字を書いてみせたんです。でも何枚か書いたところで、もったいないなと思ってやめましたよ。
だってノートもボールペンも、なくなったらもう手に入らないんですから。
代わりに、浅いお盆に砂を敷いて、木の枝で書くことにしたんですよね。消すのも簡単ですし。
「これが一で、これが二で、これが三です」
千代ちゃん、真剣な顔で砂の上の数字を見つめてます。
「それで、これがゼロ。何もない、っていう数字です」
「何もないのに、数なのですか?」
目をまん丸にしてるんですよ。可愛いですねぇ。
「そうですよ。何もないことも、ちゃんと数えるんです」
千代ちゃんはしばらく砂の上の丸を見つめてから、小さく頷いてました。
数字を縦に並べて、下の段から足していって、十を超えたら一つ上に繰り上げる。紙に書いて計算するやり方です。千代ちゃんはまだ小さいから、九九も一緒に覚えてもらうことにしました。
これがもう、飲み込みが早いんですよ。
三日で二桁の足し算ができるようになって、十日もしないうちに九九を全部言えるようになっちゃったんですから。
「にさんがろく、にしがはち……」
縁側で、歌うみたいに九九を唱えてるんです。
ただ、その隣にもう一人いるんですよね。
「……つまんない」
弥平次の妹さんで、櫻姫っていう子です。千代ちゃんより二つか三つ上で、弥平次が「一緒に学ばせてやってくだされ」って連れてきたんですけど。
この子、最初の日から頬杖をついて、砂のお盆を指でぐるぐるかき混ぜてるだけなんですよ。
「こんなの覚えて、何になるのよ。数なんて、勘定方に任せておけばいいでしょ」
「櫻姫、またそんなことを……」
千代ちゃんが、困った顔で櫻姫を見てます。
「千代は当主だから覚えなきゃいけないんでしょうけど、わたしは関係ないもの」
そう言ってそっぽを向いたかと思ったら、千代ちゃんが九九を唱え終わったところで、櫻姫がにやっと笑ったんです。
「じゃあ千代、七かける八は?」
意地悪な顔してますねぇ。七の段って、一番間違えやすいところなんですよ。
「ごじゅうろく」
千代ちゃん、ほとんど考えずに答えました。
「……え」
櫻姫が、固まっちゃってます。
「ほ、本当に? 合ってるの、それ?」
「合ってますよー」
私が答えてあげると、櫻姫は砂のお盆と千代ちゃんの顔を交互に見て、それから何か言おうとして、結局黙り込んじゃいました。
だって、自分で答え合わせができないんですもんね。問題を出したのは自分なのに。
ふーん。
まあ、いいです。やりたくない子に無理に教えるほど、私も暇じゃないですし。
◇
畑中一郎太さんが廊下の陰からこっちを覗いてるのに気づいたのは、千代ちゃんが九九を覚え終わった頃でした。
戸塚から来た、勘定方の人です。痩せてて、いつも何か考え込んでるような顔の人なんですよね。
その一郎太さんが、ある日、私の前に平伏したんです。
「比売さま。何卒、それがしにも、その数の書き方をお教えくださりませ」
すごく真剣な顔なんですよ。
「いいですよー」
断る理由もないので、教えてあげることにしました。
一郎太さんは千代ちゃんよりは遅かったですけど、それでも半月で覚えちゃいました。そうしたら今度は、自分で文官さんたちに教え始めたんです。
覗きに行ったら、年寄りの文官さんが一人、腕を組んで渋い顔をしてました。
「異国の妖術のような数など、わしは使わん。算木で十分じゃ」
「左様でござるか」
一郎太さんは、穏やかに頷いてから言いました。
「これは比売さまのお教えにござるぞ」
年寄りの文官さん、腕を組んだまま固まっちゃって。それから黙って砂のお盆を引き寄せて、木の枝を握ってました。
なんでそんなに慌てるんでしょうね。別に覚えなくても、私は何もしないんですけど。
そこからは、あっという間でしたよ。
算木を並べてた頃は夜中までかかってた勘定が、日が暮れる前には終わるようになったんですから。
夜食は、それでも出してます。だってお腹は減りますからね。
◇
ある日の昼下がり、縁側で千代ちゃんと並んで、砂のお盆を挟んで座ってたんです。
櫻姫は、今日もどこかに遊びに行っちゃったみたいです。
千代ちゃんが、木の枝を握ったまま、ぽつりと言いました。
「比売さま」
「はい?」
「家中の者が、千代のことを、陰で何か言うておるのを、時々聞くのです」
思わず、手が止まっちゃいました。
「……なんて?」
千代ちゃんは少し俯いて、それから小さく首を振るんです。言いたくないみたい。
まあ、大体の想像はつきますけどね。前に首を折った人たちと、同じようなことでしょう。
私は砂の上に数字を一つ書いてから、千代ちゃんの方を向きました。
「千代ちゃん。この間の干し柿、何個あるか、私が言ったのと台所の人が言ったの、どっちが正しかったですか?」
千代ちゃんは少し考えてから答えます。
「……比売さまです。比売さまは、ちゃんと数えましたから」
「そうですね」
にっこり笑ってあげました。
「自分で数えもしない人の言うことは、聞かなくていいんですよ。千代ちゃんのことを、自分で確かめもしないで何か言う人がいたら、その人はちゃんと数えてない人なんです」
千代ちゃんは、しばらく私の顔を見てました。
それから、こくりと頷いたんです。
「……はい」
さっきより、ちょっとだけ顔が上がってましたよ。
「あ、それと」
思い出して、付け足しておきます。
「二人の時は、比売さまって呼ばなくていいですよ。なんか堅苦しいですし」
「では、何とお呼びすれば……」
「んー、姉さまで良いですよ」
千代ちゃん、目をぱちぱちさせてるんです。
それから、ちょっとだけ頬を赤くして、小さな声で言いました。
「……ミク姉さま」
「はい、なんですか千代ちゃん」
千代ちゃんが、くすっと笑いました。この子が声を出して笑うの、久しぶりに見た気がしますねぇ。




