第66話:美玖比売、珍しく待つ
日が傾きかけた頃、大手門の方が騒がしくなりました。
「開けろ! 開けてくれ!」
門番さんの叫び声と、蹄の音。
私が縁側から顔を出すと、ちょうど馬が二頭、門の中に駆け込んでくるところでした。
一頭には、若い足軽さんがしがみついてます。たしか喜八さん。弥平次が連れていった供の一人です。
もう一頭の上では、弥平次が鞍に覆いかぶさるみたいに崩れかけてました。
背中に、矢が一本刺さったまま。
「弥平次!」
真っ先に飛び出していったのは、内蔵助でした。年寄りなのに、ずいぶん速く走りますね。
家中の人たちが集まってきて、弥平次を馬から降ろします。肩がばっさり斬られてて、脇腹からもまだ血が出てます。袴なんて、もともと何色だったのか分からないくらい。
「しっかりせい! 弥平次!」
内蔵助が、弥平次の頭を膝に抱えて叫んでます。顔が真っ白です。
弥平次が、うっすら目を開けました。
「……口上は……確かに、伝え申した……」
かすれた声でした。
「源六と……孫三郎は……」
そこで、言葉が途切れました。
私は縁側を降りて、ゆっくりそっちへ歩いていきました。千代ちゃんは、侍女さんに奥へ連れていってもらいました。血がいっぱいなので。
人垣が、すうっと割れます。
弥平次の前にしゃがみ込んで、顔を覗き込みました。
「あら、よく帰ったわね」
弥平次の目が、ちょっとだけ動いて、私を見ました。
「内蔵助、矢、抜いてくれます?」
「は……はっ」
内蔵助が歯を食いしばって、背中の矢を引き抜きました。弥平次が呻きます。
私は、弥平次のおでこに、ぽんと手を置きました。
指先が光ります。
肩の傷が、脇腹の傷が、背中の矢の痕が、みるみる塞がっていきます。
ただ、私のこれって、切り傷を治すくらいのものなんですよね。浅いところはきれいに塞がりますけど、奥の深いところまでは、ちゃんと戻ってない気がします。まあ、しばらく寝てればいいでしょう。
弥平次が、自分の脇腹に手を当てて、信じられないって顔で私を見上げてきました。
「斬り伏せて、逃げ帰ってきましたね」
言ったこと、ちゃんとやったんですね。ちょっと面白いです。
「えらいえらい」
それだけ言って、私は立ち上がりました。
「で、内蔵助」
「は、はっ」
「次はどうします? 皆殺し?」
◇
その夜、評定が開かれた。
広間の末席には、肩と脇腹に布を巻いた弥平次が、背筋を伸ばして座っていた。養生していろと内蔵助に言われたのを、「評定には出まする」と押し切ったのだ。
喜八が見てきた根須の城の様子と、弥平次の話が、改めて皆に伝えられる。
谷筋の奥にある大手門。尾根に連なる曲輪。広間で居並んでいた重臣の顔ぶれ。それから、末席にいた、政直に面差しの似た若い男。
報告が終わると、内蔵助はしばらく腕を組んで黙り込んでいた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……本音を申せば、人手が欲しいのでございます」
上座のミクが、首を傾げる。
「人手?」
「戸塚を呑んで、篁は一万三千石となり申した。されど、それを治める侍も、守る兵も、まるで足りておりませぬ」
内蔵助は、指を折りながら続けた。
「千代姫様のお身の回りを固める手すら、心許ない有様。そこへ根須を力攻めすれば、こちらにも相当な犠牲が出まする。あの城は谷の奥にあり、攻め口が限られておりますゆえ」
そこで内蔵助は、少しだけ声を落とした。
「逆に申せば、あの城を無傷で手に入れれば、千代姫様にはあちらへお移りいただける。あそこなら、千の兵で万の敵も支えられましょう」
ミクは頬杖をついて、しばらく天井を眺めていた。
「なんだか難しいですねぇ」
ぽつりと言う。
「ドンっとやって、バーンで皆殺し! がいいです」
広間に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
誰も口を開けない。比売様の「ドンっとやってバーン」が、本当にそのまま実行できてしまうことを、ここにいる全員が知っているからだ。
その時。
「……あの」
末席の方から、控えめな声が上がった。
皆の視線が、一斉にそちらを向く。
元戸塚の家臣、畑中一郎太清隆だった。四十前の、痩せた男だ。戸塚では勘定方を務めていたという。新参で、評定で口を開くのはこれが初めてだった。
一郎太は集まった視線に、少しだけ肩をすくめた。それでも、膝の上で手を握り直して、続けた。
「我ら元戸塚の者の中には、根須の家中と縁のある者が多うございます。妻の実家が根須の家臣、という者も、一人や二人ではございませぬ」
内蔵助が、目だけで先を促す。
「弥平次殿が城でご覧になった若い男。おそらくは、政直様の甥御、佐高様にございましょう」
一郎太は、ちらりと末席の弥平次を見た。弥平次が、小さく頷く。
「佐高様は、亡き先代に大層可愛がられておりましたが、今の政直様とは折り合いが悪いと聞き及びまする。当主ではなく、佐高様に話を持っていってみては、いかがでござろう」
内蔵助の目が、すっと細くなった。
「……続けよ」
「それと、今は年貢の時期にございます」
一郎太は、少しだけ声に力を込めた。
「根須を攻める前に、まずはこちらの年貢を取り終えるべきかと。戸塚の分も合わせれば、篁の蔵は一気に満ちまする。腹が減っては戦になりませぬ」
ミクの耳が、ぴくりと動いた。
「一方の根須は、篁の使者を斬った以上、戦支度を止められませぬ。百姓を城に詰めさせれば、刈り入れの手が減り、年貢も減る。それでも無理に取り立てれば、民の不満が溜まりまする」
一郎太は、深く頭を下げた。
「のちに根須を治める時、民の心がこちらに向いていた方が、何かと楽でございましょう」
広間が、静まり返った。
あまりにも真っ当すぎて、誰も口を挟めなかった。
内蔵助が、ゆっくりと末席の弥平次を見た。
弥平次は、布を巻いた肩を押さえながら、口を開いた。
「……某も、それがよいかと存じまする」
声は掠れていたが、はっきりしていた。
「あの城、力で攻めれば、源六や孫三郎のような者が、また何人も死にまする」
全員の視線が、上座に集まった。
ミクは、いつの間にか干し柿をかじっていた。どこから出したのか、誰にも分からなかった。
しばらく、もぐもぐと口を動かしながら、天井を見上げている。
「……んー」
やがて、つまらなそうに言った。
「じゃあ、それでいいですよー。待つの、あんまり好きじゃないですけど」
内蔵助が、深く、深く頭を下げた。
比売様が、待つと言った。
おそらく、この家に来てから初めてのことだった。
ミクは立ち上がって、広間を出ていきかけて、ふと足を止めた。
「あ、でも当主さんの一族は、殺すのは変わりませんからね」
にっこり笑って、それから廊下の奥へ消えていった。
広間に残された一同は、しばらく顔を見合わせていた。
一郎太が、小さく息を吐く。
「……生きた心地が、いたしませなんだ」
「慣れよ」
内蔵助が、ぼそりと言った。
「わしは、毎日じゃ」
◇
同じ頃。
近江、観音寺城。
山をまるごと城にしたような、巨大な城の奥まった一室で、二人の男が畳に額を擦り付けていた。
戸塚の当主と、その嫡男だった。
「……神の皮を被った、鬼にございます」
当主の声は、震えていた。
「寺で、家老の首を素手で引き抜き、根須の先代の顔を裂き……百の兵を、石の雨で……」
「どうか、どうか六角様のお力を……!」
嫡男が、泣き声で付け加える。
上座の男は、何も言わなかった。
三十を少し過ぎたくらいだろうか。父の代から受け継いだ広大な所領と、京にまで届く威光を背負うにしては、まだ若い。
六角義賢は、扇子をゆっくりと開いたり閉じたりしながら、二人の話を黙って聞いていた。
家老の首を、素手で。
百の兵を、石の雨で。
傷を癒す、神仏の力。
――藤原の、比売。
ぱちり、と扇子が閉じた。
平伏する二人には見えなかったが、義賢の口元が、ほんの少しだけ、面白そうに歪んでいた。
『原作で心を壊されて退場するモブに転生したけど、推しのメイドがクソ女だったし、作者の設定がガバガバなので好きに魔法いじって好きに生きる ~ショボい魔法しかないと笑った連中、全員ザマァ~』
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