第65話:美玖比売、使者を送り出す
戸塚を呑んで、篁は一万三千石になりました。
お城の広間には、元戸塚の家臣さんたちも並ぶようになって、ずいぶん賑やかです。顔ぶれが増えたぶん、評定っていうのも長くなりました。正直ちょっと退屈ですけど、千代ちゃんが隣にいるので我慢してます。
「比売さま、これおいしいです」
「でしょー。戸塚のお城の干し柿ですよ」
千代ちゃんが両手で干し柿を持って、小さくかじってます。可愛いですねぇ。
「……比売さま」
内蔵助が、咳払いをしました。
「次は根須にございますが、まずは使者を立てまする。いきなり攻めかかるのは、外聞もございますゆえ」
「いいですよー」
私は頷きました。内蔵助がそう言うなら、そうなんでしょう。
「ああ、でも当主さんの一族を殺すのは決定ね。あの人、千代ちゃんのことバカにしたこと言わせたんですから」
あのおじいさんの息子さんでしたっけ。父親を立てて、裏で戸塚と組んでたって聞きました。
「向こうが一族揃って首を差し出すなら、家臣さんと民は生かしてあげていいですよ」
広間が、しんとしました。
内蔵助が、額の汗を拭いています。
あれ。何かおかしなこと言いましたかね。
「……その条件を、根須に持って行く使者、か」
誰かが、ぼそっと呟きました。
ああ、そういうことですか。そんなこと言いに行ったら、まあ斬られますよね。
みんな、床の木目をじっと見てます。誰も手を挙げません。
その時でした。
「その任、某にお任せくだされ」
一人が前に出て、私の前に平伏しました。
顔に、まだ赤い刀傷。額から頬にかけて、ざっくり。片方の目は腫れて、半分塞がってます。
弥平次でした。
「死ぬらしいですけど?」
「いえ」
弥平次は顔を上げて、まっすぐ私を見ました。
あら。前はいつも目を逸らしてたのに。
「斬り伏せて、逃げ帰ってみせまする」
「ふーん」
私は立ち上がって、弥平次の前にしゃがみ込みました。傷を眺めます。内蔵助、思い切りやりましたねぇ。
「顔、治す?」
「いえ。これは比売様のご命に背いた、武士として不覚悟の戒めゆえ」
「そうですか。じゃあ、傷は残しておきます」
私は弥平次の顔に手をかざしました。
「でも、戒めとはいえ、その目じゃ槍働きができませんよ?」
指先が光ります。腫れていた瞼が引いて、塞がりかけていた目が、ぱちりと開きました。
でも、額から頬に走る傷跡は、そのまま。
弥平次は、何度か瞬きをして、それから深く頭を下げました。
「……かたじけのうございます」
内蔵助が、何か言いたそうに口を開きかけて、結局、黙って頷いてました。
◇
供は三人だけにした。
大勢で行けば、それだけ死ぬ者が増える。どうせ使者の役目に、槍の数は要らない。
根須の城へ向かう道すがら、弥平次は馬の上で考えていた。
比売様のお言葉を、そのまま伝えれば斬られる。間違いない。だが、言葉を曲げて伝えれば、それは比売様の命に背くことになる。
――二度目は、ない。
ならば、そのまま伝えるしかない。そして、斬られる前に斬り抜けるしかない。
簡単な話だ、と弥平次は思った。
顔の傷が、少しだけ疼く。
◇
根須の城は、篁や戸塚の城より一回り大きかった。
山の尾根に沿って曲輪が連なり、大手門は狭い谷筋の奥にある。攻めるには骨が折れそうな城だ。内蔵助殿が慎重になるのも分かる。
大手門で名乗り、刀以外の得物を預けて、広間に通された。
上座に、根須右京亮政直が座っていた。
寺で顎を裂かれた先代の息子だ。三十半ばか。父親によく似た、穏やかで、どこか底の見えない笑みを浮かべている。
脇には重臣たちが居並んでいた。その末席に、一人だけ若い男がいた。政直とどこか面差しが似ているが、目つきがもっと静かで、弥平次の顔の傷を、値踏みするようにじっと見ていた。
弥平次は、その男の顔を一瞬だけ覚えて、政直に向き直った。
「篁家が家中、篁弥平次にござる。篁家後見、美玖比売様のお言葉を申し伝える」
「承ろう」
政直が、扇子を手に頷く。
「根須家当主とその一族、首を揃えて差し出されよ。さすれば、家臣と民の命は保証いたす」
広間が、凍りついた。
政直の顔から、すっと笑みが消えた。
「……篁の後見とやらは、正気か」
「比売様は、常に正気にございます」
弥平次は、静かに答えた。
政直が、扇子をぱちりと閉じた。
「使者を斬れ」
重臣たちが、一斉に刀を抜く。
だが、弥平次の手の方が早かった。
跳ぶ。広間の長押に掛けてあった槍を、片手でもぎ取るように掴む。着地と同時に、穂先で目の前の重臣の刀を払い、返す石突きで鳩尾を突いた。
男が、くの字に折れて崩れる。
「使え!」
槍を、後ろの供に放る。
次に斬りかかってきた侍の手首を、刀の峰で打つ。取り落とした槍を、足で蹴ってもう一人の供に渡した。
「固まるな、背中を合わせろ! 門まで退がる!」
四人で円を作る。じりじりと、広間から廊下へ退がる。
根須の侍たちが、群がってくる。
狭い廊下では、槍は思うように振れない。供の一人が、脇から突かれて倒れた。
「源六!」
叫んでも、振り返る暇はない。
庭へ転がり出る。砂利を踏む音が、四方から迫ってくる。庭先で囲まれたもう一人の供が、三方から斬りつけられて、膝をついた。
弥平次は、歯を食いしばった。
――守りきれぬか。
その時、襖を蹴破って、手槍を構えた侍が飛び込んできた。
突いてくる。弥平次は半身で躱して、その柄を掴んだ。引き寄せる。体勢を崩した相手の喉に、刀を突き込む。
手槍が、弥平次の手に残った。
刀を、腰に戻す。
手槍を、両手で構え直す。
――ああ。
手に、吸い付くようだった。
――やっぱり、こっちだ。
篁家中で一番の槍と、そう言われてきた男だ。その言葉に、偽りはない。
体が、勝手に動き出した。
突く。払う。石突きで顎を砕く。返す穂先で、次の男の太腿を裂く。踏み込んできた男の刀を、柄で巻き上げて弾き飛ばす。砂利が跳ね、血が跳ねる。
弥平次の周りにだけ、ぽっかりと、人の近づけぬ間合いができた。
一人。二人。三人。四人。五人。根須の侍が、砂利の上に転がっていく。
それでも、数が違う。
背後から、肩を斬られた。振り向きざまに突き返す。脇腹に、穂先が入った。熱い。血が袴をぐっしょりと濡らしていく。
――内蔵助殿は。
ふと、あの濡れた床を思い出した。
――内蔵助殿は、もっと怖い思いを、何度もしてきたのだ。
膝が笑いそうになる。その一念だけで、弥平次は踏みとどまった。
「行け、喜八!」
最後に残った供の背中を、突き飛ばすように押す。二人で庭を駆け抜け、大手門へ。
閉じかけた門の閂を、手槍で叩き割る。
外へ転がり出る。繋いであった馬に、供を押し上げる。自分も、血で滑る手で鞍を掴んで、飛び乗った。
「逃がすな! 射よ!」
背後から、矢が飛んでくる。
一本が、背中に突き立った。
弥平次は、振り返らなかった。
馬の腹を蹴る。谷筋の道を、篁へ向かって駆け戻っていく。
――斬り伏せて、逃げ帰ってみせまする。
比売様に、そう言ったのだ。
ならば、帰らねばならない。




