第64話:美玖比売、戸塚を喰らう
戸塚の城に、嫡男が転がり込んできたのは夜更けのことだった。
泥と血にまみれ、片方の草履をなくし、着物の裾は破れている。寺から這って逃げ、山道を一晩中走り通してきたらしい。
「ち、父上……! 鬼が……神の皮を被った鬼が……!」
家老は首を引き抜かれた。根須の先代は顔を裂かれた。連れて行った百の兵は、一人残らず石の雨で潰された。
嫡男の話を聞くうちに、戸塚の当主の顔からは血の気が失せていった。
家老も、主だった侍も、皆あの寺で死んだ。城に残っているのは、留守居の年寄りと、帳面をつける文官と、門番が少々。今から村々の地侍を呼び集めたところで、間に合うはずもない。
「……観音寺へ行く」
当主は、一刻と迷わなかった。
「六角様にお縋りする。支度をせい。お前と、供を五人だけだ」
「は、母上たちは……」
「足手まといじゃ」
その夜のうちに、当主は嫡男を連れて裏門から消えた。
奥方も、娘たちも、まだ二つの孫娘も、城に置いたまま。
◇
戸塚のお城が見えてきたのは、翌朝のことでした。
お城といっても、篁のよりちょっと大きいくらいの山城です。門は閉まってますけど、櫓の上に見える人影はまばらですね。
「比売さま、まずは使者を立てて降伏を――」
「あ、大丈夫ですよー」
内蔵助が何か言いかけてましたけど、私は馬を降りました。
道中、ちょうどいい大きさの岩を見つけたので拾っておいたんです。牛くらいの大きさですかねぇ。
軽く振りかぶって、腕を振り抜きます。一番速くなったところで、岩を出す。
ドゴォン、って、いい音がしました。
門が内側に吹き飛んで、その周りにいた門番さんたちが、木っ端と一緒に転がっていきます。
「はい、どうぞー」
「か、かかれぇっ!」
弥平次が叫んで、篁の兵が一斉に門に駆け込んでいきました。
抵抗らしい抵抗は、なかったみたいです。四半刻もしないうちに、お城の中は静かになりました。
◇
広間に、戸塚の家臣や女房衆、それに奥の女の人と子供たちが集められていました。
みんな震えてますねぇ。
私は上座に座って、さっき台所で見つけた干し柿をかじっていました。甘くて美味しいです。この辺りの柿、いいですね。
「あれ? 当主さんはどこですかー?」
誰も答えません。
しばらくして、年取った文官さんが、震える声で言いました。
「お、お屋形様は……昨夜のうちに、若殿と共に、観音寺へ……六角様のもとへ……」
「ふーん」
逃げちゃったんですね。奥さんも子供も置いて。
まあ、いいです。どこに行ったか分かってるなら、いつでも行けますし。
横で内蔵助の顔が、ものすごく引きつってるのが見えました。どうしたんでしょう。
「……比売さま」
内蔵助が、前に出て膝をつきました。
「民と文官は、残してくだされ。この者らがおらねば、年貢も取れませぬ。八千石の帳面が分かる者など、篁にはおりませぬゆえ。千代姫様のためにも、ここはひとつ……」
内蔵助は一度言葉を切って、もう一度頭を下げました。
「それと、家臣どもの女房や子も、何卒……」
干し柿を、もう一口。
「んー、じゃあ当主さんの一族だけ皆殺しでいいですよー」
広間の空気が、少しだけ緩みました。
「家臣さんたちは、五年、奥さんか子供を篁の城下に人質で置いてくれるなら助けます。文句があるなら皆殺しですかねー」
家臣さんたちが、一斉に床に頭を擦り付けました。文句はないみたいです。良かったです。
「……その、比売さま」
内蔵助が、また恐る恐る聞いてきます。
「乱取りの方は、いかがいたしましょう」
「え?」
私は干し柿の種を、手のひらに出しました。
「好きにすればいいんじゃないですか?」
内蔵助は黙って頭を下げて、広間を出ていきました。
◇
広間を出てすぐ、内蔵助は篁の兵頭を呼び止めた。
「乱取りは一切まかりならん。女子供に手を出した者は、わしが自ら首を刎ねる。皆にそう伝えよ」
兵頭は一瞬、不思議そうな顔をした。比売様の許しが出たのでは、と言いたげだったが、内蔵助の目を見て、黙って頷いた。
後に、戸塚の民の間でこんな話が広まることになる。
篁に攻められたが、女子供には指一本触れられなかった。美玖比売様は、まこと慈悲深き御方であられる、と。
その噂の出どころが誰の判断だったのかを、知る者は少ない。
◇
「弥平次ー」
私は立ち上がって、弥平次に手を振りました。
「当主さんの一族、ちゃんとやっといてね。出来なきゃお仕置きねー」
「は、ははっ!」
弥平次は、奥の間に向かっていきました。
これでお仕事は終わりですね。あとは千代ちゃんにお土産を――
「……比売さま」
振り返ると、弥平次が戻ってきて、膝をついていました。
顔が真っ青です。
「どうしたんですか?」
「奥の……当主の奥方と、娘たちは……。ですが、その中に、乳母に抱かれた姫が一人おりまして……」
弥平次は、床を見たまま、絞り出すように言いました。
「まだ、二つで……」
――ああ。
そうですか。
「……で?」
自分でも、声がすっと冷たくなったのが分かりました。
皆殺しって、言いましたよね。弥平次は、はいって言いましたよね。
出来ないって、そういうことですよね。
「お前が出来ないなら、死ね」
私は手を振り上げました。
その時です。
ザン、と音がしました。
内蔵助でした。いつの間に戻ってきてたんでしょう。抜いた刀で、弥平次の顔を斬りつけてました。額から頬にかけて、ぱっくり裂けて、血が噴き出してます。
「ぐっ……!」
弥平次が呻いて、床に倒れました。
内蔵助は刀を放り投げて、私の足元に額を擦り付けました。
「比売さま! 何卒! 何卒!」
声が裏返ってます。
「罰は、この通り与えましてございまする! どうか、どうかこの内蔵助に免じて……! この老いぼれの首でよろしければ、今すぐにでも差し上げまするゆえ……!」
広間の誰も、息をしていませんでした。
私は、振り上げた手をそのままに、しばらく内蔵助のつむじを見下ろしていました。
内蔵助、震えてますねぇ。
内蔵助は、お料理の手配が上手です。甘鯛も猪も、全部内蔵助が用意してくれました。千代ちゃんも懐いてます。
いなくなったら、ちょっと困りますね。
「……」
私は、手を下ろしました。
床に倒れてる弥平次を見下ろして、一言だけ言いました。
「次はないよ」
弥平次は、血まみれの顔で、何度も何度も頷いてました。
「あ、そうだ」
私は台所に寄って、干し柿を袋いっぱいに詰めました。千代ちゃん、甘いもの好きですからね。
「千代ちゃんにお土産持って帰らなきゃ。じゃあ、あとはよろしくー」
馬に乗って、私は一人で篁のお城に帰りました。
◇
ミクが去った広間で、弥平次はしばらく動けなかった。
顔が熱い。血が目に入って、片方の視界が赤く滲む。それでも、生きている。
ゆっくりと身を起こして、隣を見た。
内蔵助が、まだ土下座したままだった。
額を床に擦り付けたまま、肩が小刻みに震えている。比売様が去ったことにも、まだ気づいていないのかもしれない。
そして、老人の袴の下の床が、濡れていた。
失禁していたのだ。
――ああ。
弥平次は、ようやく理解した。
この人は、ずっとこうしてきたのだ。
本家に乗り込まれた時も。寺で首が飛んだ時も。比売様の手が振り上がるたびに、この人は比売様と家中の間に立って、そのたびに自分の命を差し出してきた。若狭のぐじだの、今宵の猪だの、飯の話で笑いながら、腹の底ではいつもこうやって死ぬ覚悟をしてきたのだ。
それを自分は、比売様が恐ろしいだの、出奔しそびれただの、そんなことばかり考えていた。
自分が甘ったれていたせいで、今日もこの年寄りに命を懸けさせた。
「……内蔵助殿」
弥平次は、内蔵助の肩にそっと手を置いた。
老人が、びくりと顔を上げる。涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃの顔だった。
「比売様は、もうお帰りになられました」
「そ、そうか……そうか……」
「……かたじけない」
弥平次は、深く頭を下げた。
それから立ち上がり、顔の血を袖で乱暴に拭った。
奥の間へ向かう。
足取りに、もう迷いはなかった。
◇
その日、弥平次の顔に刻まれた傷は、生涯消えることはなかった。
家中の者は、後にその傷をこう呼んだという。
内蔵助傷、と。




