第62話:淳志、五郎と名乗りを得る
街道を歩き出してしばらく、五郎はやたらと喋った。
「旦那、さっきの槍、どっから出したんで?」
「修験の技だ」
「へえ、修験ってのはすげえもんですねえ」
それで終わりだ。深くは突っ込んでこない。突っ込んでこないくせに、横目でずっとこっちを観察してる。こういう奴は嫌いじゃない。見るとこは見てて、聞かなくていいことは聞かない。
昼過ぎ、川べりで休むことにした。
村で貰った干し飯を袋から出す。出したはいいが、そこで手が止まった。前に一度齧って、歯が欠けるかと思ったやつだ。
「……旦那、まさかそのまま齧る気じゃねえでしょうね」
「違うのか」
「水でふやかすんでさ」
五郎は笑いながら竹筒の水をかけてくれた。しばらく置くと、確かに柔らかくなる。
三十四歳が、干し飯の食い方を足軽に教わってる。ミクが見たら腹抱えて笑うだろうな。
……まあ、いい。ここで腹を決めた方が早い。
「五郎。正直に言っとく」
「へい」
「俺は遠いところから来た。この辺りのしきたりも、銭の値打ちも、侍の作法も、何一つ知らない」
五郎は干し飯を噛みながら、しばらく黙ってこっちを見ていた。
「……道理で」
「何がだ」
「侍を三人も斬って、城主に喧嘩売って、案内しろってんだもの。まともな奴ぁそんなことしやせん」
ぐうの音も出ないわ。
「だから、教えてくれる奴が要る」
五郎は欠けた前歯を見せて、にっと笑った。
「あっしは貧乏百姓の三男でさ。田んぼは兄貴が継ぐ。足軽で戦に出たって、首の一つも取れなきゃ一生このまんまだ」
干し飯の最後の一口を放り込んで、五郎は膝を叩いた。
「旦那みてえなのに付いてきゃ、ちったぁ出世の目もあるかもしれねえ。賭けさせてもらいやすぜ」
◇
そこから、五郎の講義が始まった。
「まず名乗りでさ。明日、城の前で"アツシだ"なんて言っちゃいけませんぜ」
「駄目なのか」
「お侍ってのは、苗字と、通り名と、それから本当の名を持つもんで。本当の名、諱ってのは、めったに人に呼ばせねえ。普段は通り名で呼び合うんでさ」
なるほど。織田上総介信長、みたいなやつか。教科書でしか見たことないが。
頭の中で整理する。噂として広まるのは、通り名の方だ。この先、俺の名前があちこちで囁かれるようになったら、それが届くのは――
「通り名は、淳志でいい」
「へい」
「苗字は小鳥遊。諱は……綱興にしとくか」
「つなおき? どっから出たんで、そりゃ」
「なんか強そうだろ」
「……旦那、そういうとこですぜ」
五郎が呆れた顔をする。うるさいわ。いいんだよ、諱なんてどうせ誰も呼ばないんだから。大事なのは通り名の方だ。
淳志。
あいつが聞いたら、一発で分かる名前だ。
◇
五郎は、この辺りの勢力についても教えてくれた。
これから向かう城の主は、この一帯を治める千石ほどの国人だという。その上に領主がいて、そっちは四千石。
「ご領主様は、信濃の高梨様の流れでさ。何代も前に分かれた分家で、今じゃ本家とは年始に文を交わすくらいって話ですがね。家柄だけはえらく立派なんで」
「……たかなし?」
「へい、高梨様」
「俺と読みが同じじゃねえか」
「へえ! そりゃ縁起がいいや」
五郎はけらけら笑ってるが、こっちは笑えない。字が違うとはいえ、喧嘩を売る相手の主筋と苗字の読みが被るって、どういう巡り合わせだよ。
五郎は急に真面目な顔になって、付け加えた。
「旦那。城主を斬るのは、まあいい。千石の国人ひとつなら、ご領主様もそこまで本気にはならねえかもしれねえ。けど、ご領主様まで敵に回したら、旦那一人で国を相手にすることになりやすぜ」
「先に筋を通しとけってことか」
「そういうこって」
ちょうど街道の先から、荷を背負った行商人が歩いてきた。五郎の顔見知りらしい。高梨の城下に向かう途中だというので、言伝を頼むことにした。
五郎に教わったばかりの名乗りで、口上を作る。
「小鳥遊淳志綱興より、高梨殿へ。城主の手の者に武士の誇りを汚された故、斬った。高梨殿と事を構えるつもりはない」
行商人が頷きながら復唱する。
「――だが、やると言うなら是非も無し」
「旦那!? 最後のは要らねえでしょう!」
五郎が青くなったが、行商人はもう「へい、確かに」と言って走り出していた。
「……まあ、本当のことだしな」
「本当のことでも言わなくていいことってのがあるんですよ!」
◇
日が暮れて、街道脇の林で野営した。
焚き火の前で、五郎がふと聞いてきた。
「そういや旦那、あの村で世話になってたって、誰んとこで?」
俺は、婆さんの話をした。
行き倒れかけてた俺を拾ってくれたこと。粟の粥を食わせてくれたこと。倅が先の戦で死んだこと。それから、昨日、家の前で兵を止めようとして死んだこと。
話してる途中で、五郎の手が止まった。
「……旦那。その婆さまの倅ってのは、もしかして」
名前を言うと、五郎の顔がくしゃっと歪んだ。
「あいつ、あっしを庇って死んだんでさ」
焚き火が、ぱちっと爆ぜた。
「去年の戦で、隣に並んでたんでさ。横から来た槍に、あっしが気づかなくて。あいつが飛び込んで、あっしの代わりに……」
五郎は、膝の上で拳を握りしめていた。
「戦の後、合わせる顔がなくて。一度も、あの村には行けやしませんでした。それでも、噂だけは気にしてて……」
声が、震え出す。
「あいつのお袋が、最近居候を拾って元気になったって、聞いたんだけどなあ……」
そこで、五郎は堪えきれなくなった。
声を上げて泣いた。大の男が、子供みたいに。
俺は何も言わなかった。言うことなんて何もない。ただ、薪を一本くべた。
婆さんが元気になってた、か。
俺から見れば、婆さんはよく笑うようになったな、くらいにしか思ってなかった。でも、周りから見ても、婆さんは変わってたんだな。
……そうか。
ひとしきり泣いて、五郎は袖でごしごしと鼻を拭った。
「……よし。決めやした」
目は真っ赤だが、声はもう震えてなかった。
「旦那が婆さまの仇を取るってんなら、あっしは最後まで付いていきやす。出世なんざ、ついででいい」
「ついでじゃなくて、ちゃんと出世しろよ。婆さんの倅が浮かばれねえだろ」
「……へへっ、違えねえ」
五郎は腰の袋をごそごそ探って、包みを一つ取り出した。
「腹、減ってるでしょう。半分どうぞ」
粟の握り飯だった。
受け取って、齧る。塩気もろくにない、ぼそぼその粟飯。
婆さんが毎朝握ってくれたやつと、似た味がした。
「……旨いな」
「でしょう」
五郎は、また鼻をすすりながら笑った。
◇
翌朝。
坂を登りきると、城が見えた。
小さな山城だ。土塁と空堀に囲まれて、木の門が一つ。その門は固く閉ざされていて、両脇の櫓の上には弓兵が並んでいる。
七騎は、ちゃんと言伝を届けたらしい。で、城主は戦を選んだってわけだ。
「旦那。城が見えるとこまで、ってお約束でしたが……」
五郎は言いかけて、苦笑いした。
「……まあ、ここまで来たら最後まで見届けやすか」
「下がってろよ。矢が来る」
俺は門の前に進み出た。矢がぎりぎり届くか届かないか、その辺りで足を止める。
息を吸う。昨日教わったばかりの作法で、腹から声を出した。
「小鳥遊淳志綱興である!」
櫓の上が、ざわめいた。
「昨日の言伝の返答、確かに受け取った!」
弓兵たちが、一斉に弦を引き絞る音がした。
俺は、右腕を大きく振りかぶった。
腰を捻って、全身で。オーバースロー。手には何も持っていない。
腕が振り抜かれる、その一点で。
門扉ほどもある岩を、出した。
轟音。
城の門が、内側へ吹き飛んだ。




