第58話:美玖比売、和睦の誘いを受ける
「んー、このお饅頭、甘くて美味しいですねぇ」
縁側に腰かけて、私は湯呑みを手に取りました。隣では千代姫が、小さな口で一生懸命に饅頭を頬張っています。
「ひめさま、おいしいです」
「ですよねー。内蔵助が持ってきてくれたんですよ」
篁の郷は、今日も平和です。庭では小者たちが薪を割っていて、遠くから畑仕事の声が聞こえてきます。
◇
その光景を、廊下の陰から篁内蔵助は眺めていた。
五千石。本家を併呑して、篁の分家は倍以上の身代となった。あれから二月、郷は驚くほど落ち着いている。
だが内蔵助は、あの日のことを今も夢に見る。
千代姫を取り戻した、あの日。姫は間一髪で無事だった。着物は乱れていたが、確かに間に合っていたのだ。
問題は、その後だった。
『……恐れながら、比売さま。千代姫様のことにございますが』
屋敷に戻って三日後、家老の一人が評定の場で切り出した。声には確かに苦渋が滲んでいた。あれは悪意ではない。この時代の常識として、当然の進言だったのだ。
『嫁入り前の姫が、男と二人きりで部屋に入られ、帯まで乱れていたとなれば、世間はそうは見ませぬ。篁の家名を守るためにも、千代姫様には御髪を下ろしていただき、寺にお入りいただくのが……』
美玖比売は、最後まで黙って聞いていた。
そして、立ち上がった。
ゴキッ。
その音を、内蔵助は生涯忘れないだろう。家老の首が、ありえない方向に曲がっていた。
比売はそのまま奥へ向かった。同じ話をしていた女官を三人。廊下で噂をしていた侍女を二人。全て、首を折って回った。
悲鳴も上がらなかった。誰も、何が起きているのか理解できないまま終わったからだ。
『千代姫は篁の当主です。それ以外の話をする人は、私の敵ですよね?』
血の一滴も浴びていない姿で、比売はにっこりと笑った。
以来、誰もその話題を口にしない。千代姫は当主のまま、美玖比売が後見。それで決着した。
筋も道理も、この家にはもう存在しない。あるのはただ一つ、「千代姫を泣かせる者は死ぬ」という、極めて分かりやすい掟だけだった。
……悪いことばかりでもない、と内蔵助は思う。
あの掟のおかげで、家中に不穏な動きは一切なくなった。誰も欲を出さない。誰も謀らない。おそらく戦国広しといえど、これほど結束の固い家もあるまい。
結束というより、恐怖だが。
◇
「比売さま」
内蔵助は咳払いをして、縁側に進み出た。
「戸塚家の件、また村で小競り合いがございました」
「ー、またですかー」
比売は饅頭を飲み込んで、首を傾げた。
戸塚家。篁の東に境を接する、八千石の国人領主である。ここ一月ほど、両家の境にある村で執拗な嫌がらせを繰り返していた。堰を勝手に切り替えて水を引く。年貢の帰属を主張する。篁の百姓を追い立てる。
どれも、それ自体では戦の口実にならぬ程度の、しかし確実に相手の出方を窺う動きだった。
「これはもう、侵略の兆しと見るべきかと。八千石ともなれば、動かせる兵は二百を下りますまい」
篁は五千石。集められる兵は、百二十がせいぜいだ。数の上では明らかに分が悪い。
「ふーん」
比売は、もう一つ饅頭を取った。
「じゃあ、皆殺しですー?」
「お待ちくだされ!」
内蔵助は、反射的に膝を突いていた。この動きだけは、この二月で格段に速くなった自覚がある。
「戸塚は八千石。まともにぶつかれば、痛手は免れませぬ。それに、この乱世、周囲の目というものが……」
「でも、放っておいたら千代姫が困りますよね?」
「そ、それは……」
「じゃあ潰すしかないじゃないですか」
あっさりと言い切る比売の横で、千代姫がきょとんと見上げている。
「ひめさま、けんかするの?」
「んー、まだ分かりませんけどねー」
比売はその小さな頭を撫でた。その手つきは、どこまでも優しい。
この手が、数刻前に家老の首をへし折った手と同じものだとは、誰も思うまい。
◇
その数日後だった。
「根須家より、使者が参っております」
根須家。篁と戸塚のちょうど間に位置する、六千石の家である。
通されたのは、やたらと丁寧な物腰の初老の男だった。
「此度は、戸塚家と篁家の間に不穏な気配ありと聞き及び、我が根須家が間を取り持ちたく存じます」
「和睦、ということでござるか」
内蔵助は身を乗り出した。
「左様。三家の境にある古寺にて、両家より代表をお立ていただき、話し合いの場を設けまする。無論、我が根須が公平なる仲介役を務めましょう」
「ほう……」
「双方、兵は百までとし、寺の境内には代表のみが入る。これにて遺恨なく手を打とうというのが、当家の提案にございます」
「相分かった。主家に諮った上で、追って返答いたす」
使者が帰った後、内蔵助は深く息を吐いた。
「比売さま。これは、悪い話ではございませぬ」
「そうですかー?」
「根須は六千石。戸塚とも篁とも境を接しております。どちらかが大きくなりすぎるのは、根須にとっても困りもの。ここで両家の均衡を保つのは、理にかなっておりまする」
内蔵助は、そう説明しながら、自分の言葉に安堵していた。
戦にならずに済む。数で劣る篁にとって、これ以上の展開はない。多少の譲歩は必要だろうが、それで郷が守れるなら安いものだ。
何より――比売が暴れずに済む。
「比売さま、頼みまする。今回だけは、穏便に……」
「分かってますってー」
比売は笑って頷いた。
「千代姫が困らないなら、私は別に何でもいいですよ」
内蔵助は、心底ほっとした顔をした。
その言葉の、後半部分の意味を深く考えなかったことを――彼はこの七日後に、死ぬほど後悔することになる。
和睦の日取りは、七日後と決まった。




