第54話:美玖比売(ミクひめ)、甘鯛でご機嫌のち不機嫌
篁郷の空気は、ここ数日でまるで変わった。
これまで貧しさと怯えに沈んでいた分家の屋敷は、今や毎日誰かが笑っている。田畑には人手が戻り、逃げていた小者たちも次々と帰参してきた。理由はただ一つ――「あの恐ろしくも慈悲深き比売さまが、我らを見守ってくださっている」からだ。
「いずれ、比売さまが千代姫様のよき婿殿をお選びくださるであろう」
内蔵助がそう言った一言が、あっという間に村中に広まった。誰も彼もが浮かれ、噂話に尾ひれをつけて語り合った。「聞いたか、比売さまがお選びになる婿殿というのは、さぞ立派な御方に違いない」「なんでも神仏のお導きで見つけ出されるという話だ」
当のミクはというと、屋敷の広間で、千代姫の隣に座って握り飯を頬張っていた。
「んー、この塩加減、好きです」
「比売さま、お行儀が……」
傍らに控える侍女がおろおろと諫めるが、ミクはどこ吹く風だった。
千代姫は、最初はミクを怖がって近づかなかった。当然だ。目の前で十数人の男が一瞬で肉塊になるのを見せられたのだから。だが数日も経つと、すっかり懐いてしまっていた。
「比売さま、これ、お花です」
庭で摘んできたらしい小さな花を、千代姫が差し出す。
「わぁ、可愛いですね。ありがとうございます、姫さま」
ミクはその花を受け取って、屈託なく笑った。この笑顔が、あの日、十数人の頭を吹き飛ばした顔と同じだとは、誰も信じられないだろう。
そんな穏やかな午後を、蹄の音が引き裂いた。
「無礼者! ここを何処と心得る!」
庭先まで押し入ってきたのは、篁本家の一団だった。先頭に立つのは、恰幅のいい壮年の男――篁本家当主の弟であり、乗っ取りを画策していたあの従弟だ。その後ろには、まだ若い息子と、槍を構えた郎党たちが控えている。
「分家の分際で、比売とやらを担ぎ上げ、勝手に婿を選ぶだと!? 図に乗るのも大概にせよ! 千代の婿は、我が息子と、三代前より約定されておるわ!」
従弟が唾を飛ばして喚き散らす。
「篁の家督は、本家たる我らが差配してこそ筋が通るというもの! 分家風情が、どこの馬の骨とも知れぬ女子を担ぎ出し、家を乱すなど許されると思うてか!」
広間の空気が、一瞬で張り詰めた。
内蔵助をはじめとする篁分家の家臣たちが、顔を青くしながらも前に出ようとする。だが、それより早く、ミクがすっと立ち上がった。
「あ」
その一言に、家臣一同の背筋が凍りついた。あの日の記憶が蘇る。十数人が一瞬で肉塊に変わった、あの光景が。
「比売さま……!」
誰かが悲鳴のような声を上げかけた、その時。
「い、いま! 若狭の甘鯛で、食事の用意が……!」
内蔵助が、ほとんど絶叫に近い声で割って入った。
ミクの動きが、ぴたりと止まる。
「……ぐじ?」
「は、はい! 甘鯛にございます! 本日獲れたての、極上の一尾を、比売さまのために……!」
「甘鯛!」
ミクの目が、みるみる輝いた。
「食べたいです!」
彼女はすとんと座り直した。従弟に向けていた視線は、もう完全に膳の方へ移っている。
「な……」
従弟は、拍子抜けしたように口を半開きにした。今まさに斬り込むつもりだった相手が、いきなり魚の話をし始めたのだ。何が起きたのか、理解が追いつかない。
「お、おい、貴様! 話を聞いておるのか!」
「聞いてますよー。でも今、甘鯛食べたいので」
ミクはにこにこと笑いながら、料理が運ばれてくるのを待っている。あまりにも自然体すぎて、従弟の怒りすら行き場を失っていく。
「ぐ……ぐぬぬ……! 覚えておれ! 千代の家督、必ず我らが取り戻してみせる!」
最後に精一杯の捨て台詞を残し、従弟は郎党を引き連れて去っていった。
広間に、安堵の溜息が広がる。
「た、助かった……」
誰かがへたり込むように呟いた。内蔵助は、額の脂汗を拭いながら、震える手で扇子を握りしめている。
やがて、湯気の立つ甘鯛の塩焼きが運ばれてきた。
「わぁ、美味しそうですねー」
ミクは箸を取り、皮の焼けた身に齧りついた。ほろりと崩れる白身。上品な脂の甘み。
「……んっ! 美味しいです! これ最高ですね!」
満面の笑みで頬張るミクを見て、家臣たちも肩の力を抜いた。今日のところは、何とか乗り切った――そう誰もが思っていた。
その安堵が打ち砕かれたのは、日が傾き始めた頃だった。
「た、大変にございます!」
血相を変えた侍女が、廊下を転がるように駆けてきた。
「千代姫様が……千代姫様が、おられませぬ!」
箸を持ったまま、ミクの手が止まった。
「……姫さまが?」
「先ほどまで庭におられたはずが……お姿が見当たらず……! もしや、先の篁本家の方々が……!」
膳の上に、箸が静かに置かれた。
ミクが立ち上がる。
「比売さま……!?」
「お待ちくだされ! まずは手勢を整えて……!」
家臣たちの声を背に、ミクはもう外へ駆け出していた。
厩に着くと、繋いであった馬に飛び乗る。
和鞍、見慣れない形の鐙。だが、迷いはない。
スレイプニルに乗っていたミクが乘れない訳が無かった。
「お待ちください、比売さま!」
内蔵助が叫ぶ声が、後ろで遠ざかっていく。
ミクは手綱を握り、馬の腹を蹴った。
風を切って駆ける。頭の中にあるのは、ただ一つだけだった。
千代姫の、あの無邪気な笑顔。摘んできた花を差し出してくれた、小さな手。
本家の屋敷は、そう遠くない。日暮れ前には着くだろう。
辿り着いた城門の前には、槍を構えた門番が二人立っていた。
「止まれ! 何者――」
ミクは馬上から手を伸ばし、収納から呼び出した大岩を、そのまま二人に向けて叩きつけた。
鈍い音。門番は声を上げる間もなく、地面に沈んだ。
「開けてくれないなら」
ミクは馬を降り、門扉に手をかける。
「勝手に開けますねー」
軋んだ音を立てて、門が内側へ押し開かれた。
夕日に赤く染まる本家の城内へ、ミクは静かに足を踏み入れた。
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