第52話:振り出しの夜
目が覚めて、真っ先に出たのはアイツの名前だった。
「ミク」
返事がない。
「ミク!どこだ?」
二度目は自分でも分かるくらい声が跳ねる。
返ってくるのは虫の声だけで、あとは遠くで水が流れている音が聞こえるだけだ。
――落ち着け。落ち着けよ、俺。
慌てて何か解決したことが一度でもあったか?。
ないな。じゃあまず現状確認だ。
身を起こすと、掌にべったり湿った土がついた。竹と杉が入り混じった林。枝の隙間から、細く欠けた月が見えている。見慣れた形だ。
次に自分の格好。
アラクネの職人連中が何日も徹夜して織り上げた、あの漆黒のコートがない。代わりに着ているのは吊るしのスーツだった。緩んだネクタイ。履き潰しかけの革靴。
あの朝、電車で吊り革を握っていた時と、寸分違わぬ格好。
足元には、見覚えのありすぎる通勤鞄が転がっている。
「……マジかよ」
収納に手を伸ばす。視界の端の小石に意識を向ける。
何も起きない。もう一度。石はそこに転がったままだ。
拾い上げて掌に乗せ、収納すると消えた。出す。掌に出る。
それだけだな。座標指定はできない、速度設定もない。
ただ触れた物を仕舞うだけの、ありがたみゼロの袋。
「……基本スペックってか」
中身を検めると空だった。
龍にベヒモス、地竜。
教会と領主館から根こそぎ持ち出した金銀財宝。
酒と菓子に仮死にして放り込んだ黒王号とクイーン。
何ひとつ、入っていない。
無意味だと分かっていながら、もう一度探る。
さらにもう一度。
「……振り出しかよ」
いや、振り出しより悪いか。
あの日、白い部屋で神を丸め込んだ俺は、少なくとも最強の権限を握っていた。
石を音速で撃てた。傷は元通りになった。飯は腐らなかった。
今の俺にはそのどれもない。
ソシャゲなら詫び石どころか運営が飛んでるレベルだぞ。
期待もせずに鞄を開ける。
バッテリー残量の心もとないスマホ。
財布、名刺入れ、ボールペンに手帳。ペットボトルの茶。
買ったまま食い損ねていたチョコバー。
書類の封を切るのに使っていたカッターナイフ。
名刺入れを摘み上げて、思わず笑ってしまった。
「……これ、誰に渡そうかねえ」
この状況で「株式会社◯◯、小鳥遊でございます」なんてやったら、不審者どころか物の怪扱いだなあ。
ポケットには十円玉が数枚と、ジルコニアの小箱が出てきた。
これが、この世界における俺の全財産である。
しばらく、地面に並べたそれを黙って見下ろしていた。
――整理しよう。
収納は基本性能のみ。
時間停止なし。遠隔指定なし。生物の部分収納もダメだろう。
健康体と言語理解は、感触からしてまだ生きてる。
身体能力は立ち上がった限りだと据え置きっぽいな。
ここは日本じゃないか?。
竹、杉、土と苔の匂い、見慣れた月。
少なくともガルズでもサリアでもない。
分からないのは、いつの日本かということ。
それから……
「……ミク」
三度目の声は、自分でも驚くほど小さかった。
誰もいない林に吸い込まれて、それきりだ。
最後に一緒にいたのは焚き火の前だった。海沿いの街まで二日だな、と話していた。刺身を食おう、魚醤の代わりを探そう、と。
足元が歪んで、「アツシさん、なんか下が変ですよ」と言って、俺が手を伸ばして、指先が袖を掠めて――そこまでだ。
考えたところで答えは出ないな。今の俺に必要なのは分析じゃなく行動だ。
立ち上がる。上着の埃を払い、革靴の底で地面を踏みしめる。
悪くないな。体はよく動く。
その時、遠くから怒鳴り声が届いてきた。
内容まではハッキリと聞き取れない。だが、その抑揚には確実に覚えがあるし、怒気も混じっている。
「……時代劇の撮影か?」
一瞬、本気でそう考えた。すぐに打ち消す。カメラも照明もスタッフもいない。何より空気が違う。
「……日本に違いないが、令和じゃ無さそうだ」
空を見上げた。
星が多い。多すぎる。東京の夜空とは比べ物にならない。
光害ゼロの本物の夜だ。
鞄からチョコバーを取り出して齧る。
包装が潰れて中身が少し折れていたが、まあ問題ない。
甘いな。味はちゃんとする。舌も鼻も正常だ。
……だがなあ、やたらと味気ないんだよ。
こういう時、あいつが隣にいたら何て言うだろうか。
『あーっ! アツシさん一人で食べてる! 私にも一口くださいよぉ』
勝手にそんな声が再生される。
「……早く来ないと、喰っちまうぞ」
誰もいない林に向かって、俺は呟いた。
当然、返事はない。
残りを飲み込み、包装を丸めて収納する。
ゴミひとつ落とさないのは、もはや癖だ。
鞄を肩にかけ直す。
服も、装備も、物資も、金も、馬も、全部消えた。
そんな物はどうでもいいが、アイツが隣にいない。
だから、やることはひとつだ。
「……探すか」
あの能天気な声が、また「わぁ、アツシさん!」と笑うのを聞けるように俺はアイツを必ず見つける。
「探して、それからまた、旨いもんを食いに行こう」
俺は、見知らぬ夜の林を歩き出した。
怒鳴り声がする、人のいる方角へ。
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