第30話 船底のネズミと、嘔吐く男
「……頼む。いや、頼みます。マジで……揺らさないで……」
薄暗い船室のベッドにへばりつきながら、俺は呻いた。
出航から二日。俺の船酔いは悪化の一途を辿っていた。
目を開ければ世界がぐるぐると回り、目を閉じれば内臓がシェイクされる感覚に襲われる。
「アツシさん、お水置いておきますね! 私、ちょっと黒王号たちの様子を見てきます!」
ミクは俺の惨状をよそに、すこぶる元気だった。
彼女はスキップ混じりで船室を出て、船底の貨物室へと向かっていった。
◇
カビと潮の匂いが入り混じる貨物室。
そこには、俺たちの愛馬であるスレイプニル、黒王号とクイーンが繋がれていた。
だが、その周囲には不穏な人影が数人。
乗客に紛れ込んでいた海賊崩れのゴロツキたちだ。
「おい、気をつけろ。こいつらスレイプニルだぞ」
「わかってるよ。だが、こんな極上の魔物、新大陸の貴族に売り払えば一生遊んで暮らせるぜ」
ゴロツキたちが、強い麻酔薬を塗った布を持ち、黒王号たちに近づいていく。
黒王号が威嚇の鼻息を鳴らし、八本の脚で床を蹴った。
「おやおや? 迷子ですかねー?」
その時、貨物室の入り口から、甘ったるい声が響いた。
ミクだ。
「あ? なんだこの小娘……」
男の一人が振り返り、下劣な笑みを浮かべた。
「ちょうどいい。馬の持ち主か。お前も一緒に売り飛ばして……ギャンッ!?」
男の言葉は、最後まで続かなかった。
ミクの姿がブレたかと思うと、次の瞬間には男の顔面に彼女の右拳がめり込んでいた。
岩石の質量を上乗せされた凶悪な一撃。
男の頭蓋骨がトマトのように潰れ、そのまま後方の木箱を突き破って吹き飛ぶ。
「ひっ!?」
「な、なんだこいつ!? 殺せ! 殺せェ!」
慌てて剣やナイフを抜くゴロツキたち。
だが、ミクの瞳には一切のハイライトがなかった。
「うちの子たちに触ろうとしたこと。そして……」
ミクは飛んできたナイフを軽く首を傾げるだけで避け、すれ違いざまに男の胸に触れた。
『実行:肺の収納』
「ガ、ヒューッ……!?」
呼吸器官を突如亜空間へ消し飛ばされた男が、首を掻きむしりながら床に転がる。
「アツシさんとのハネムーンを邪魔しようとしたこと。万死に値します」
踊るように、歌うように。
ミクは笑顔で男たちの急所を物理的に破壊していく。
血の雨が降るが、ミクは巧みに黒王号たちに血がかからないよう立ち回っていた。
ものの数十秒。
貨物室には、物言わぬ肉塊だけが転がっていた。
「ふぅ。よしよし、クイーン、怖くなかった?」
ミクが返り血一つ浴びずにクイーンの鼻先を撫でていると、不意に。
――ズドォォォォンッ!!!
船全体が、ひっくり返るような激しい衝撃に見舞われ、船体が四十五度に傾いた。
「きゃっ!?」
ミクが体勢を崩す。黒王号たちが不安げに嘶いた。
「クラーケンだァァァッ!!」
「船が沈むぞォォッ! 武器を持てェェ!」
甲板の方から、船員たちの絶叫が聞こえてきた。
◇
「アッ……ゴフッ!!」
船室では、大惨事が起きていた。
急激な傾きにより、ベッドで丸まっていた俺は為す術なく床へと転げ落ちたのだ。
ガンッ! という鈍い音と共に、硬い木造の壁に顔面を強打する。
健康体スキルのおかげで怪我こそないが、三半規管が完全にバグっている状態での強烈なシェイクは、脳髄にダイレクトなダメージを与えてきた。
「あ……あ……」
俺は床に這いつくばり、白目を剥きながらゾンビのように這いずって階段を目指した。
「ゆ、揺らすな……これ以上……俺の胃袋を……」
息も絶え絶えに甲板の扉をこじ開けると、そこは暴風雨が吹き荒れる地獄絵図だった。
家ほどもある巨大な触手が何本も船体に絡みつき、ミシミシと木材を砕いている。
絶望する船員たち。
だが、その騒ぎを切り裂くように、怨念の塊のような低い声が響いた。
「てめえ……イカ野郎……」
俺は手すりにしがみつきながら、海面から顔を出したクラーケンの巨大な目玉を睨みつけた。
「俺の……安眠を……ジャマす……オロロロロロロロ……ッ!!」
啖呵を切り終わる前に、強烈な吐き気が込み上げ、俺は海に向かって盛大にえずいた。
吐瀉物自体は『収納』しているため出ないのだが、胃液が逆流する不快感とえずく音だけが響き渡る。
「ギシャアアアアッ!!」
クラーケンが、俺を獲物と認識したのか、丸太のような太さの触手を一本、猛スピードで叩きつけてきた。
船員が悲鳴を上げる。
だが俺は、手すりから顔を出して吐き続けながら、片手だけを頭上に掲げた。
「オエェェ……ッ、『収納』……」
シュンッ。
俺の頭上に迫っていた数十トンの触手が、触れた瞬間に亜空間へと消滅した。
「ギ……?」
クラーケンが戸惑ったように動きを止める。
「いい加減に……オロロロロ……ッ! 船を……揺らすなと……!」
再び触手が迫る。今度は二本同時だ。
「ゲホッ……『収納』……ッ!」
シュンッ! シュンッ!
迫り来る触手が、俺に当たる直前で次々と消え去っていく。
「魔法使いだ! すげえ!」
「でもあの人、めっちゃ吐いてるぞ!?」
船員たちが引いているが、知ったことか。
クラーケンが怒り狂い、今度は巨大な口から高圧の水鉄砲を放ってきた。
「ウップ……水圧は……やめ……『収納』……オロロロロロ……ッ!!」
激流のブレスすらも、俺の前に展開された亜空間のゲートにすべて吸い込まれていく。
傍から見れば、ゲロを吐きながらあらゆる攻撃を無効化する、謎の無敵の男だ。
「もう……限界だ……」
俺は涙目になりながら、残る力を振り絞ってクラーケンの本体を見据えた。
『ターゲット:クラーケンの脳髄および心臓』
『実行:収納』
パチン、と指を鳴らす。
その瞬間。船を締め付けていた残りの触手から、スッと力が抜けた。
クラーケンの巨体が、糸の切れた操り人形のように海面へと崩れ落ちる。
即死だ。
「終わっ……オロロロロロロロ……ッ!!」
俺はクラーケンを討伐したというのに、達成感に浸る間もなく再び手すりに突っ伏した。
「アツシさーん!」
甲板に駆け上がってきたミクが、俺の背中をバンバンと勢いよく叩く。(やめてくれ、胃が揺れる)
「すごいですアツシさん! イカの触手、いっぱい収納してくれましたね! これで巨大イカ焼き食べ放題です!」
「オェェェェ……ッ」
「あはは、アツシさんたら照れちゃって!」
俺の返事は、むなしいえずき音だけだった。
◇
数日後。
嵐が去り、波が穏やかになった頃。
船はついに、新大陸サリアの港町『サッキ』へと到着した。
タラップが下ろされ、俺はふらつく足取りで大地に降り立った。
靴の裏から伝わる、揺れない地面の感触。
「……地面だぁ……」
俺は口を半開きにして、涙目でその場にへたり込んだ。
両手で石畳を撫で回す。揺れない。これだよ、これ。人類には陸地が必要なんだ。
「アツシさん、見てください! あそこの白い建物!」
ミクが港を見下ろす高台を指差した。
そこには、新大陸の領主のものと思われる、白亜の立派な館がそびえ立っていた。
どうせ、あの館の主もろくな奴じゃないんだろう。
また面倒事に巻き込まれるのかもしれない。
だが、今の俺にはそんなことはどうでもよかった。
「へへ……揺れてない……白い家が、真っ直ぐ立ってる……」
「アツシさん、壊れちゃいましたねー」
力なく笑いながら地面に這いつくばる俺と、それを楽しそうにツンツンと突くミク。
俺たちの新大陸サリアでの冒険は、威厳の欠片もない最悪のコンディションと共に、幕を開けたのだった。




