第29話 出航の代償と、優しき偽装工作
「オロロロロロ……ッ」
荒れ狂う波。
容赦なく上下左右に揺れる木造船の甲板で、俺、小鳥遊淳志は手すりから身を乗り出し、盛大にえずいていた。
「アツシさーん、だらしないですよー。せっかくのハネムーンなのに!」
背中をさすってくれるミクの声は、どこまでも明るく、そして微塵もダメージを受けていない。
特注のワインレッドのコートを海風になびかせ、ケロッとした顔で潮の香りを楽しんでいる。
(クソッ……どうなってやがる……!)
俺には神との交渉で得た『健康体』のスキルがある。
毒、麻痺、精神干渉といったステータス異常は、すべて「不健康」としてシステムが自動で弾いてくれるはずだ。
だが、「船酔い」は違った。
揺れに対して三半規管が異常を感知し、脳に警告を送る。これは病気でも毒でもない、人間の体としての「正常な生体反応」なのだ。
だから、システムが『異常』と認識せず、弾いてくれない。
胃の中身を『収納』で亜空間へ空っぽにすることはできる。だから物理的な吐瀉物自体は出ないのだが、脳から送られ続ける「吐き気」というエラーメッセージと強烈な目眩だけは、どうやっても消すことができなかった。
「うぅ……三半規管だけ……収納してえ……」
「ダメですよアツシさん! バランス取れなくなって立てなくなっちゃいますよ!」
ミクがコロコロと笑いながら、冷たい水を含ませた布を首筋に当ててくれる。
そのひんやりとした感覚だけが、今の俺の唯一の救いだった。
魔王との停戦協定をサクッと終わらせた俺たちは、今、未知の大陸「サリア」へと向かう定期船の上にいた。
目的は世界を救うことでも、勇者を追うことでもない。
新大陸に生息するという「ベヒモス」や「龍」を食ってみたい。ただそれだけの、極めて純粋なグルメ旅行だ。
だが、なぜこんな急ごしらえで船に乗り込むハメになったのか。
荒れる胃の腑を抱え、塩辛い海風を浴びながら、俺は十日程前の出来事を回想していた。
◇
魔王城を出た俺たちは、スレイプニルの黒王号とクイーンに跨り、魔族領の西の果てを目指していた。
道中に出会う魔族の一般人たちとは、思いのほか良好な関係を築けていた。
「人間? まあ、俺たちの畑荒らさねえなら別に構わねえよ」
彼らはそう言って笑い、俺たちが支払う金貨や人間の物資と引き換えに、美味い魔界野菜や酒を喜んで提供してくれた。
俺たちにとって、美味しい飯を作る奴に種族は関係ない。平和なグルメ旅になるはずだった。
――あの一団に遭遇するまでは。
「おい、そこの人間! 止まれ!」
のどかな街道で俺たちの前に立ち塞がったのは、魔族軍の一個小隊だった。
豪華な鎧を着た、いかにも傲慢で無能そうな貴族が部隊を率いている。
「人間がこんな所をうろついているとはな。……ん? おい、その女」
馬上の貴族が、ミクを見て下劣な笑みを浮かべた。
欲望で濁りきった、豚と同じ目だ。
「いい女じゃないか。おい、その女を置いていけ。俺に抱かせろ。そうすれば、お前の命だけは見逃してやろう」
「……閣下、お待ちください!」
貴族の横に控えていた副官らしき壮年の魔族が、慌てて馬を寄せて諫めた。
「彼らはただの旅人です。現在、女王陛下より人間との無用なトラブルは避けるよう通達が出ているはず。それに、あのスレイプニルを従えている時点で、ただ者ではありません!」
副官はまともだった。
相手の力量と戦力差を正しく測れる、まともな軍人だ。
「黙れ! 俺を誰だと思っている! たかが人間二匹、俺の部隊で蹂躙してくれるわ! 出会え! あの男を殺し、女を捕らえろ!」
貴族が聞く耳を持たず、兵をけしかける。
ため息をついたのは、俺だけではなかった。
「あーあ。せっかく最近、人間関係良好だったのに」
ミクがクイーンの背から、ふわりと地面に飛び降りる。
「私の体は、アツシさんのものなんですよ? 汚い目で見ないでください」
戦闘は、瞬きする間に終わった。
ミクの『質量パンチ』が火を噴く。彼女は岩石の質量を拳に乗せ、一切の容赦なく貴族の四肢だけを正確に粉砕した。
「ギャアアアアッ!? 腕が! 俺の足がァァッ!!」
ダルマにされた貴族が、血溜まりの中で絶望と激痛に泣き叫ぶ。
ミクは冷たい目で見下ろしながら、その顔面を容赦なく靴底で踏み潰し、絶命させた。
「か、閣下……!」
残されたのは、副官と数人の兵士たちだけ。
俺の『収納』による武器の没収と、ミクの圧倒的な暴力の前で、彼らはすでに戦意を喪失していた。
「……ミク、そいつらはもういい。俺たちの飯の邪魔をしたのはあのバカ貴族だけだ」
「はーい!」
俺たちは副官を殺す気はなかった。
だが、副官は震える手で剣を握り直し、俺たちの前に進み出た。
「……頼む。私と戦ってくれ」
「あん? 何を言ってやがる。お前はまともだったろ。無駄死にする気か」
「まともだからこそだ……!」
副官が、血を吐くような悲痛な声で叫んだ。
「私一人だけが生き残って帰れば、貴族を守れなかった無能の謗りを受ける。それだけではない。残された私の家族が、あの貴族家からどんな凄惨な報復を受けるか……!」
なるほど。
権力闘争と連帯責任。どこの世界でも、組織の末端が一番割を食う。
彼は家族を守るために、「人間と最後まで勇敢に戦い、戦死した」という名誉ある死を必要としていたのだ。
「……アツシさん」
ミクが、少しだけつまらなそうに俺を見る。
俺はため息をつき、以前、蟷螂族から手に入れた緑色の刃を持つ鉈を『収納』から取り出した。
「せめて、痛みはないようにしてやる」
「……感謝する、強き人間よ」
副官が安堵したように目を閉じ、剣を付き出す。
俺は一閃のもとに、その首を落とした。
苦痛を感じる暇すらない、完璧な介錯。
鉈の血を払い、収納にしまう。
その時、俺は気づいていた。副官に付き従っていた兵士の一人が、震えながらも一矢報いようとこちらを窺っていることに。
俺は、その兵士に確実に聞こえるように、わざとらしく声を張り上げた。
「……チッ、あの副官、手強かったな。ミク、俺も奴の決死の魔法でダメージを受けた。今日はこれくらいで引くぞ!」
「え? あ、はいっ! アツシさんが深手を負っちゃうなんて! 逃げましょう!」
ミクも空気を読んで、大根役者ぶりを発揮する。
俺たちは黒王号とクイーンに飛び乗り、手負いのふりをしてその場から逃げるように立ち去った。
生き残った兵士の証言により、副官は最期まで俺たちに抗った英雄として語られるだろう。彼の家族は、手厚い保護を受けるはずだ。
だが同時に、俺とミクは殺した貴族の一族から「一族の仇」として本格的に付け狙われることになった。
スレイプニルを走らせながら、俺は少しだけしんみりとした気分になっていた。
副官の覚悟。異世界にも、家族のために命を懸ける男がいる。
「……悪いことをしたな」
俺がポツリと呟くと、隣を並走していたクイーンの背から、無神経なほど明るい声が返ってきた。
「まあ、私たちはサリア行くし関係ないでーす!」
「……お前なぁ」
「だって、私たちは悪くないですよ! あのバカ貴族が自業自得なだけです! はいアツシさん、クッキー食べます?」
ミクが孤児院で大量買いした特製クッキーを、コロコロと笑いながら差し出してくる。
その突き抜けた自己中心的な明るさに、俺の感傷も一瞬で吹き飛んだ。
こいつにかかれば、どんな悲劇もただの通過点だ。
「……もらうよ」
俺がクッキーを齧ったその時。
荒野の向こうに、青く輝く海と、新大陸サリア行きの船が出るという港町「サッキ」の街並みが見えてきた。
◇
「……で、慌てて飛び乗った結果がこれだ」
俺は再び甲板でえずきながら、恨めしそうに青い海を睨みつけた。
黒王号たちは、船の貨物室で大人しくしているはずだ。
「一族から狙われてるのに、堂々と定期船に乗るアツシさん、かっこよかったです!」
「変装アイテムのおかげだ。……それより、水くれ」
「はいっ! あーあ、早く着かないかなぁ。龍のお肉、どんな味ですかね!」
ミクの瞳は、新しい玩具を見つけた子供のようにキラキラと輝いている。
魔族領での追っ手も、勇者たちの追跡も、海を渡ってしまえば関係ない。
待ち受けるのは、未知の大陸と未知の食材。
俺たちのハネムーン(?)は、波乱と船酔いと共に、賑やかに幕を開けたのだった。




