Myth ~Ragnarok~〈Heimdall〉
ビフレスト前の門ではなく、すぐにヒミンビョルグへと降りた。
門番は時期が来るまで必要ない。
あいつが出て行ってから数日は、きっと何も起こらないから。本気でアースガルドを潰すつもりなら、ラグナロクを起こすつもりなら、準備を完璧にするまでは来ないだろうから。
『お帰りなさいませ』
迎えたアルシュロットに馬を渡し、視線だけで問う。
『セロシアでしたら部屋に』
「分かった」
『食事は?』
「……軽めの物を一応用意してやってくれ」
『はい』
きっと、食べはしないだろうが。
いつもと同じヒミンビョルグの中。だが、それがいつもより陰鬱で、いつもより暗く寂しい冷たさをかもし出しているように思う。
一つの扉の前に立ち、しばし間をおいた後叩いてみた。
返事は、ない。
たとえば、今がこういう状況でなければ、放っておいたかもしれない。
あいつに出会う前なら、確実に放っておいただろう。けれど、今は――
「セロシア、入るぞ」
断りながらもドアをひき開ける。普段のうるささからは想像もできないぐらい落ち着いた部屋の中。ベッドの上に、小さく蹲っている塊が目に入った。
音は聞こえているだろうに、顔は上げられない。
ゆっくりと近づき、ベッドに腰を下ろす。それでも、まったく反応しない。
「セロシア……」
「っ!」
髪に手を触れて、ようやく肩が動いた。
ゆるゆると上げられた顔は、真っ赤になった目、幾筋も涙のあとが残る頬で彩られていた。そのまま俺の姿を認めると、額を胸においてくる。
「っ、いない、んですっ。どこにもっ、何度も呼びかけたのに……っ、何にもっ、あの子のことっ、分かんない……!」
震える手で俺のマントを握り締めて、嗚咽に混じって小さく訴えた。
たくさん泣いたのだろう。それでも、まだセロシアの涙が枯れることはない。いっそ、何も感じなくなるまで泣かせてやった方が良いのかもしれない。
だが、それではこいつは――
「セロシア……」
顔も上げさせず、肩を抱いたままゆっくりと口を開いた。
セロシアを壊すわけにはいかない。
「ラグナロクが起こる」
「っ、そんなっ……」
「ロキはもう……戻ってこられない」
『戻ってこない』ではない。『戻ってこられない』だ。
セルリアがいなくなってしまった今、昔のロキが俺達の前に姿を現すことはない。
最後の最後にあいつを繋ぎ止めていた『絶対』が、なくなってしまったのだから。
「十日以内には、始まるだろう」
唇を噛み締めたまま、辛そうな、悔しそうな顔をするセロシア。
「お前はどうする?」
「え……?」
見上げてきた瞳は、正真正銘驚いていた。
「戦えない者は、事前に避難できる手はずが整えてある。お前は他神界にも神の知り合いがいるだろう。そちらに行くのも良い」
「でもっ、あたしは……っ」
未だに受け止められないセルリアのこと。きっとその姿を見るまで彼女は認めないつもりなのだろう。だから、『ここに残りたい』という気持ちがあるはずだ。
「俺が両目を使っても、セルリアの姿は発見できなかった」
「でもっ、でもぉ!」
「セロシア、受け入れろ」
「嫌っ、そんなのっ!」
「何のためにロキが言葉を告げにきたと思ってる!」
「っ……ふっ、……ふあっ」
ボロボロと零れ落ちる涙が増す。
気づいていたはずだ。分かっていたはずだ。あの時、ロキが来た時に、セルリアの死は分かっていたはずだ。
「お前を壊さないために、あいつは来たんだ。お前がセルリアの妹だから」
「ひっく……っ、ふぅ……っ」
「最後に、セルリアの主として……お前の前に姿を現したんだ」
あいつなら、セロシアの目を盗み、俺にだけ会って出て行くことも可能だっただろう。そうであったならば、セロシアはセルリアの死を知らずにすんだだろう。
だが、そのままラグナロクが起これば、セロシアは姿の見えないセルリアを気にかけ、探し続けるはずだ。もうどこにもいない姉を、ずっと。
そうやってこいつが壊れてしまうのを防ぐために、ロキはわざとセルリアの死を突きつけに来た。
セロシアが壊れてしまわぬよう。己の愛した少女。その少女が愛した、誰よりも大切にしていた妹を壊さぬために。
そしてもう一つ、アースガルドの神々に波紋を起こすために。
「ヘイム、ダル様っ」
震えて、言葉の定まらぬ口調のまま、セロシアは抱きついてきた。
「あたしっ、決めます! 自分で……決めっ、だから! も、少しっ、も、少しだけ、待ってください! ちゃんと、すぐっ、立つから!」
「ああ……それまで、傍にいる」
「ふっ……うああぁぁぁっ」
我慢していたものを吐き出して、認めずにいたものを全て受け止めて、セロシアは泣き出した。こいつは強い。だから、きっと立ち上がれる。
その時セロシアが選んだ道を、俺は守ってやればいい。
少なくとも、俺がそうやって動くことを、ロキは望んでいる気がするから。
門番のヘイムダルとしてではなく、ただのヘイムダルとして対峙することを望んでいると思ったから。
(ロキ……俺も、お前と同じように動こう)
お前は、邪神としてではなく、愛した者を奪われた一人の男として、ラグナロクを起こすのだろう? なら、俺もまた――
「神としてではなく、ただお前の好敵手として、剣を取ろう」
そうでなければ、セルリアが犠牲になった意味がないだろう?




