Myth ~Ragnarok~〈Celosia〉
その瞬間、あたしの中から何かが消えた。
あまりにも自然に、あっさりと。
だから、それが何なのか一瞬判断がつかなかった。
「セロシア?」
「へ?」
珍しくヘイムダル様から呼びかけられ、驚いて顔を上げる。そしたら、また驚いたことに頬に指を当ててくるから。
「あのっ」
「ゴミでも入ったのか?」
言われて、頬を押さえる。
なんでだろう。あたしは泣いていた。しかも、どんどん流れて止まらない。
「あ、あれ?」
拭っても拭っても零れ落ちるから、ヘイムダル様も不審に思ったのだろう。持っていた槍を立てかけ、少し身をかがめて覗き込んでくる。
「どうした?」
「わ、分かんな……っ、あれ、止まんないっ」
「落ち着け」
「……何か、何か消えたんですっ」
「消えた?」
「あたしのっ、中から……っ」
泣き続けている間に沸き起こる喪失感。首をもたげるのは信じられないほどの不安。
ねえ、これは何?
ねえ、何が起こったの?
まさか……まさかっ。
「セロシア」
そう呼びかけたのは、ヘイムダル様じゃなかった。
でも、ヘイムダル様と聞き間違えるくらいの低く、何の感情も表していない声。
「ロ、ロキさ……っ!」
「ロキ……」
さすがにヘイムダル様も目を見張った。だって、ロキ様の服や手が――
「ロキ様、その……血」
「セロシア」
彼はいつものようにあたしの話なんて聞かず、でも、いつもと違い、何の感情も見せない目と口調で言った。
「セルリアが死んだ」
「……え?」
「オーディンのグングニルで貫かれて」
例えばそれが、いつもの笑みで言われたのなら殴りかかっただろう。例えばそれが、血に汚れていない服で言われたのなら叫び返しただろう。
でも、殴りかかるにはあまりに読み取れない表情で。叫ぶにはあまりにリアルすぎる服で。
「はは……嘘」
そんな言葉しか、出てこなかった。
「はははっ、やだっ、嘘ですよ。だって、だって何でオーディン様が!?」
「嘘かどうかは、君が一番分かっているんじゃないか?」
「っ!」
蘇る喪失感。今度は、涙は流れなかった。
膝から力が抜け、その場にへたり込む。
ロキ様は、服を翻しビフレストの方へ歩き出した。それに気づいたヘイムダル様が、咄嗟に手を伸ばす。
「待て、ロ……っ!」
呼び消える前に、澄んだ金属音が木霊した。
飛び退ったヘイムダル様の手にも剣。そして、ロキ様の手にも――
「レーヴァテイン……」
作っても、一度も抜いたことがないと言っていた炎の剣が、その手にあった。
「ロキ……」
「ヘイムダル、オーディンに伝えておけ……っ」
それは、あたしの知ってるロキ様からは想像もできないぐらい、地を這うような低い声。それに身をすくめ、あたしは目だけを彼に向けた。
もう、どうすれば良いのか分からない。
「ラグナロクを起こすのは僕じゃない……」
ねえ、セルリア。あんたしかあの人は止められないじゃない!
「この神界を滅ぼす原因は、お前だとなっ!」
振りぬかれた剣から勢いよく炎が迫る。ヘイムダル様はその炎からかばうようにあたしをマントでくるんだ。
結界越しに伝わる熱気。
それが途絶えた時、もう、ロキ様の姿はそこになかった。
雨が、ポツポツと天空から降り注ぐ。
あの人の怒りの熱を消すかのように、あの人や、あたしの悲しみを表すかのように。
「セルリア……」
呟いた名前に、初めて、笑顔の半身を思い出すことができなかった。




