もう一歩!(6)
ぼんやりと、意識が浮上する感覚を覚えた。同時に感じたのは体の気だるさだ。重いだけではない。関節のいたるところが痛い。
「ふにゃ……」
なんとも情けない声が、かすれた喉から出てきた。
おいおい大丈夫か、あたし、とついつい考えてしまう。
「気がついたか」
「ああ、はい……目は覚めました……って」
横から聞こえた声に、痛い関節を振り切って勢いよく首を回す。ゴキリという嫌な音がして、脳にしびれるような痛さが伝わった。
「何をしている」
「聞かれても困ります……」
痛む首を押さえつつ、セロシアは周りを確認した。
ここは間違いなく、ヒミンビョルグのあてがわれた部屋である。自分はそのベッドに横になっている。
それは良い。そこまでは良い。では隣の椅子に座って、しかもマントも脱いで、ついでに今まで見たこともないラフな格好でいるこの主は一体何なのだろう?
(あ、あれだ。明日ラグナロクなんだ。だから前日に休養取ってるんだ。そうだ、そうに違いない。誰かそうだと言って)
「何を百面相している」
「したくもなります……そっちこそ何してるんですか? 仕事は?」
「ここからでも、見張れることは見張れる」
淡々と言いながら、彼は起き上がろうとしたセロシアを制し、額に手を当てる。
まだ熱いな、とぼやかれて、ああ、熱が出ているから幻覚か? とまで思った。それほど意外だ。
「大丈夫ですよ、あたし。仕事あるならそっちに……」
「あとでロキどころか、お前の姉にまで殺される」
それを聞いて、セロシアはクスリと笑った。きっとあの姉が何か言ったのだ。珍しく怒気を混ぜて。
「怖かった……でしょう?」
「意外だったな」
「芯はあたしよりしっかりしてるもの、あの娘」
迷いさえなければ、彼女はダメなことはダメと言う。いけないことはいけない、としっかり相手を怒れる。そういうところもセロシアの好きな面だった。
セルリアは、弱いだけじゃない。
「それにしても、騒がしい奴だとは思っていたが……」
「?」
視線をちらりとよこされ、続いて彼は嘆息した。
「ずいぶん馬鹿だな、お前」
「な……」
「馬鹿じゃない分、騒がしいだけのロキの方がまだましだぞ」
「なぁっ!」
ガバッと起き上がって反論しようとして、頭の重さにぐらりとまたベッドに倒れこんだ。
心外だ。非常に心外だ。馬鹿と言われたことよりも、あの神と比べられたことがひたすら心外だ。
とりあえず睨みつけるセロシアの前に、ヘイムダルは素知らぬふりをしてトレイをよこした。上には彼女がよく見慣れた物が乗っている。
「おかゆだぁ~」
それに梅干とお漬物と緑茶。卵スープもついている。これをどうしたのかと顔を上げれば、ヘイムダルはセルリアからだと答えた。
口に運べば、食べ慣れた懐かしい味がする。梅干もお漬物も緑茶も、わざわざ大変だっただろうに。
「おいしい……」
ホッとして、体の中が温かくなった。
その様子を見ていたヘイムダルが、前触れなく口を開いた。
「……まずいと思ったことはない……」
「はい?」
いきなり何だ、と彼を見れば、ヘイムダルも真っ直ぐこちらを見つめていた。ああ、この人はちゃんと目を見て話すんだな、と思う。
「役立たずだと言った覚えもない。お前は少し前まで人間で、我々とは違う生き方をしてきたんだ。できないことが多くて当然だろう。それを無理にやれとは思わない」
「はあ……」
「辞めろとも思っていない。思っていないから言うこともない」
「えっと、つまり……」
分かりにくいが、話を総合すると、だ。
「あたしはこのまま従者でも良い、と?」
「初めから悪いとは言ってないだろう」
「良いも悪いも、何にも言わないじゃないですか、ヘイムダル様。分かりませんよ」
あっさり切り替えしてやれば、ウッと詰まる彼が見られた。
そんな彼はセロシアにとって面白すぎた。こみ上げる笑いをかみ殺しながら、それでも笑みが浮かぶのは止められない。
「……何だ?」
「いえ……何か会話してるなぁって思って」
こんなに長く話すのは初めてじゃないだろうか? ましてや彼がここまで口を開くなんて更に珍しい。
「会話が……したいのか?」
それは難しいな、と彼は表情で語っている。
「っていうか……知りたいです。色々。何にも分からないから、どうしたら良いのか余計に分からなくなって……で、人から聞いた情報ばかりじゃ、何か悔しくて……」
今日のことでよく分かった。彼は『報告』はできても『会話』は苦手なのだ。意思疎通というか表現がからっきしダメだ。そんなところを無理にすぐ直してもらおうとは思わない。でも、知りたいところは山ほどあるのだ。だから――
「ちょっとずつで良いんです。教えてください。仕事のことも、ヘイムダル様のことも。で、たまにはあたしのことも知ろうとしてください。そうすれば、自然に話もしてるだろうから」
何だか随分と譲歩した感は否めないが、今の彼と自分にはこんなところで良いのかもしれない。両方ともかなり不器用なようだし。
「仕事といっても、いつものようなことだぞ。お前には合わないのでは?」
「そうでもないです。そりゃ単調だけど。凄く大事な仕事でしょう? なら、やりがいはありますよ」
そう笑って言えば、彼は少し驚いた顔をして『そうか』とだけ言った。
食べ終えたトレイを取り除き、ヘイムダルは一つの小瓶を手渡す。中になにやら粉が入っていた。ひどく、不気味な色をした。
「こ、これは?」
「エイルから貰ってきた薬だ」
エイルというのは、この神界での医療の女神である。ということはこれは薬で、これが一番効くから渡されたということなのだろうが。
(飲みたくない……)
しかし飲まないことには仕事もできない。風邪が治らない。セルリアにも心配をかけたままだ。それは絶対に嫌だ。
セロシアは小瓶を受け取り、水を受け取り、意を決して口の中に流し込んだ。
「っ! まっず!」
「神界にはうまい薬などないがな」
「うわぁ……もう絶対、病気になんかなんない」
飲み終えると、急激に眠気が襲ってきた。まだ体が疲れているのもあり、薬の睡眠作用もあるのだろう。もぞもぞと布団に戻る。
「教えてもらえますよね……ヘイムダル様のことも……」
「教えるようなことがあるとも思わんが」
「ありますよ、例えば……何で髪で目を隠してるんです? 見えますよね?」
彼は前髪を少し伸ばし、その目を隠している。支障はないようだが、門番の任に大きな責任を持ってしている彼には珍しい。
「この目は色々見えすぎる。あまり酷使すると、肝心な時に使えんだろう」
「ああ、疲れ目か……」
「………………」
何か違うような気がしたが、今日はもう新たな答えを探す気力もなかった。どんどん眠気が襲ってくる。
「ちゃんと見えたら、綺麗なのに……」
すっと手を伸ばすと、ヘイムダルは驚いたように目を丸くした。手が伸ばされたままなのでどうしようかと逡巡し、悩んだ結果、彼は前髪を上げてくれた。
銀の瞳が、両眼ともセロシアの前にさらされる。
「ああ……やっぱり綺麗……」
※ ※ ※ ※ ※
ふわりと笑って呟くとぱたりとセロシアの手が落ちた。そのまま安らかな寝息が聞こえ始める。
ヘイムダルはそれを見届けると、手を布団の中へと戻してやる。
「変な奴だ」
そう言った彼の顔には、ほとんど誰も見たことがない『微笑み』があったのだが。唯一の証人であるセロシアも眠ってしまい、結局、誰に見られることもなくヘイムダルはいつもの無表情に戻った。




