もう一歩!(4)
体が非常に重かった。朝の嫌な思い出と、徒労に終わった作業がそうさせているのだろう。セロシアは一歩を踏み出すのが辛かった。
「はぁ……」
結局のところ、昨日までと同じ展開だ。一人で食事をとって、残りをバスケットに詰めて持っていく。魔法瓶などないから、スープもパンも冷めてしまっている。
今日も晴天な北欧神界が恨めしかった。
ビフレストを眼前に捉えながら、門を一歩出て立ち止まる。そのままギギギっと、まるで油を注し忘れたロボットのような動きで、彼女は左斜め上を睨みつけた。
「……おはようございます」
「……ああ」
微動だにしない黒の塊。これがセロシアの主、ヘイムダルである。
ロキと同じ、彼も北欧神界で有力な神の一人だ。
ここにいることで分かるとは思うが、彼の実質な仕事は門番。このビフレストを越えて、外界から敵が来ないかを見張ることだ。
昨今、敵らしい敵はいないらしいが、それでも巨人族とにらめっこ状態なのは変わらず。彼が見張りをやめてしまえる状態でもない。
今では人間達の感情が作り出す、悪鬼悪霊などもいるわけで。この戦の世界である北欧神界では、ヘイムダルは必須の存在なのだ。
(ラグナロクだって起こらないとは言えないしね……)
それは決して起こって欲しくはないのだけれど。それでも『絶対』はない。
「これ……朝ご飯です」
「ああ……」
先程と間のおき方が違うだけの返事。いつもこうである。彼は一度、持っていた槍を立てかけ、受け取ると背をもたせ掛けて少しリラックスした状態になった。
「いつ起きたんですか?」
今回はめっぽう早く起きたつもりのセロシア。それなのに、彼は部屋にいなかった。一体いつ頃起きたのだろうか。
「……寝てすぐ、だろうな」
「は?」
「………………」
疑問符を飛ばしてみれど、それ以降、彼は何も言わない。
(ほら、会話が続かない)
彼はこちらの質問に答えたから『良し』、と思っているのだろうが、セロシアが望むのはそういったものではなく――
彼女は意を決すると、黙々と食べ続けるヘイムダルに再び口を開いた。
「寝てすぐって。寝たんですよね?」
「ああ……」
「で、すぐ起きたって、二時間ぐらいしか寝てないんですか?」
「そんなに多くは必要ない」
必要ないって、とか思いつつも、いつか聞いた話を思い出した。彼は小鳥の眠りほどしか必要ないのだ、と。おそらく十分寝ていればかなり良い方なのだろう。
そこまで考えて、セロシアははたと気づいた。
(……あたしの知ってる話って、全部……)
じいっと見上げていると、彼も気づいたらしい。一瞬、視線だけこちらによこした。それでも、彼から口を開こうとはしない。さっさと食べ終えた彼は、またいつもの状態に戻る。
感想の一言も、ない。
何だかセロシアは泣きたくなった。じんわり目頭が熱くなるが、ぶんぶんと頭を振って回避する。
(ああもう! あたしはこんなことぐらいで泣く奴じゃないっ!)
昨日、あの二人の前でもう少し頑張ると言ったのだ。こんな些細なことで、また打ちひしがれてどうするのか。
「あの……眠くならないんですか?」
伺うように問うてみれば、『何を今更』のような視線を返された。
でもここで引いてはまた同じことの繰り返し。セロシアはヘイムダルの隣に立つと、極力明るい声で話し出した。
「しっかし変な感じですよね。ほとんど同じ姿をしてるのに、こっちは睡眠も食欲もたくさん必要で、ヘイムダル様達、神様はあんま必要なくて」
「………………」
「あ、でも神様の中でも違うのか。ロキ様は寝てるって聞きましたし。トール様なんかはたくさん食べて飲んでますよね。あれどこに入ってるのか不思議なんですよね~」
「………………」
「不思議と言えばお肌のつやの違いとかもありますよ! フレイヤ様とかなんであんなスベスベなんだろう。って言うかロキ様とヘイムダル様、あとバルドル様も綺麗ですよね~。何のお手入れもしてないから、さらに腹立つわけですが」
「………………」
「ヘイムダル様なんてほぼ不眠ですよ? それで何で綺麗なんだか。あ、もしかして何か秘訣とかあります? あるならぜひともご教授……」
「………………セロシア」
「は、はい!」
もうやけくそで、思いつくがままに話し続けていると、珍しく声をかけてきた。しかも、さらに珍しいことに名前を呼んでくれている。
驚きと、ちょっとした嬉しさがあってそっちを見上げると、銀の光を宿した左目と目があった。どこまでも先を見とおす千里眼。この瞳は、本当に綺麗だと思う。
「あ、あの……」
「ここの仕事は俺だけで良い。お前は屋敷にある書類に目通しを頼む」
「…………え」
今度は、驚きなんてなかった。毒気を抜かれた。違う。何を言われたのか分からなかったのだと思う。
「簡易的な報告書を作って置いといてくれ」
「あ、え、ちょ……」
どういうことだ? 彼はどうしろと言っている?
「後の余った時間は好きにしろ」
ヘイムダルはそれだけ言うとまた前を向いてしまった。何事もなかったかのように前を。そしてそのまま、ある意味とどめの一言までくれた。
「食事も気にしなくて良い」
「っ!」
それが、決壊の切れた瞬間だった。
人間、本気で怒ると反射神経で動くんだなと、どこか遠くに思いながらセロシアは右手を振り上げた。もちろん、そんなものあっさりヘイムダルは掴んで止めるのだが。
それでも怒りが収まらない場合は抵抗するらしい。続いて左手の杖まで振り上げて勢い良く下ろした。またしても、あっさり止められるのだけど。
両腕を掴まれたまま、セロシアはぐっと唇を噛んだ。上から落ちてくる溜息までもが耳障りだ。聞きたくない。
「一体何がしたい……」
「……ぇば……じゃ、すか」
「?」
もう我慢できなかった。上司だろうが主だろうが糞喰らえである。こんな思いをし続けるのならば、いっそ――
セロシアは振り上げた顔で、けれど絶対に涙は落とすまい、と意地になってヘイムダルを睨みつけた。少し、彼も驚いたように目を見開く。
「言いたきゃ言えば良いじゃないですかっ。『いらない』って! ハッキリそう言えば良いじゃないですか!」
「? 何を言って……」
「そりゃ役立たずでしょうよっ、美味しくないもの作ってるでしょうよっ、無意味な行動ばっかして、うるさくて、言うこと聞かない嫌な従者でしょうよ! そう思ってるならそう言えば良いじゃないですか!! そんな遠回しにしなくても良いじゃないですかっ!」
「お、おい……」
「そんな遠回しに避けられるぐらいなら、ハッキリ『役立たずだ。辞めろ』て言われる方がよっぽどましですよっ!」
「だから……」
暴れるセロシアを、どうしたものかとヘイムダルは腕を掴んだまま。けれどそこから何もできないようだった。
セロシアもセロシアで止まらなかった。
だってもう十分我慢した。自分の限界まで耐えた。こんな形で『いらない』と言われるならいっそ、全部吐き出して辞めた方がスッキリする。
「役立たずで悪かったですね! 美味しくない物しか作れなくてすいませんね! でも仕方ないじゃないですか! あたしヘイムダル様のこと何にも知らないもんっ! どう動いたら効率よくできるとか、何が好きとか知らないもんっ! 人づてに聞いたことばっかで、ヘイムダル様何も言ってくれないじゃん! しょうがないでしょう!?」
「いや……」
「そんなに嫌なら辞めますよ! ええ辞めますともっ! こんな気持ちで仕事なんかできないもん! 今までどうも……っ!」
若干、困った声色になったヘイムダルを遮って、セロシアは持っていた杖に魔力を込めた。興奮状態でそれを行ったのだから、予想以上に強い力で。
それに気づき、ヘイムダルは咄嗟に手を離してしまった。
「お世話になりましたっ! 根暗門番さんっ!!」
言葉を皮切りに、二人の間で小爆発が起こる。反射的にヘイムダルはマントで顔を覆った。
※ ※ ※ ※ ※
ゆっくりと煙が晴れて行く。美しいビフレストが姿を現す中、既にセロシアの姿はなかった。ついでに門の付近に常駐している騎獣もいない。
そうはいっても千里眼を持つヘイムダル。簡単に姿を見失うわけがない。
目には騎獣に乗ってミッドガルドへ向かうセロシアの背が映った。まだそう遠くはなかった。
追おうと一歩足を踏み出しかけ、ヘイムダルは止まった。をそのままの状態でしばし黙考し、踵を返しアースガルドへ入る。
さっきまで彼女の腕を掴んでいた手を見ながら、一つ溜息をついた。




