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好きな女の子と同じ高校に行くために自転車競技を始めたら光速スプリンターと呼ばれるようになっていました  作者: 中原圭一郎
全国高校自転車競技会 2年生編

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【外伝17】神崎秀文

 ほとんど眠ることができないまま、冬希は自宅で朝を迎えていた。

 フランクフルトを出発した時刻が20:10で、成田に着陸した時刻が16:15。日付は1日増えているため、時計の針は20時間ほど進んでいる。しかし時差の関係上、実際に機上にいた時間は14時間ほどとなる。特にやることもないので、その時間の大部分を寝て過ごし、残りは機内で上映されていた映画を見て過ごした。

 冬希は、自分一人で考えることを、完全に諦めていた。経験も知識もない人間がどんなに考えても、正しい結論に達することは無いように思えたのだ。

 朝まで眠れなかった理由も、単純に機内で寝すぎことが原因でしかなかった。

 結果的には、それはとても都合がよかった。

 チームキングプロサイクリングに誘われた件について、冬希は相談する相手として、神崎高校の理事長兼自転車競技部の監督である神崎秀文を選んだ。冬希から見た神崎は、飄々としてつかみどころがなく、思慮深く決して怒らない、底知れない人物だった。さらに、海外で走っていた経験もあるとのこと、今回の冬希の事案には、最適だと思われた。ただ、きわめて多忙な人であるため、そこだけ少し気が引けた。

 相談させていただきたいことがあるので、明日少しお時間を頂けないでしょうか。

 冬希のメッセージに対して、始業前の7:00からなら、と神崎からの回答があった。どうやら、朝一で学校に行った後、終日外出予定だということらしい。別の日でも、と神崎は言ってくれたが、冬希としては一刻も早くこの件について方向性を出したかったので、断る理由はなかった。

 朝5時ぐらいからダラダラと準備をして、電車で学校へ向かった。時間はあるので、自転車で行ってもかまわなかったのだが、トラブルで神崎との約束の時間に遅れると申し訳ないという点と、なにより冬希のロードバイクはまだ輪行バッグに入っておりいるため出して組み立てる必要があり、それが面倒だという理由から、電車で行くことにしたのだ。

 6時半には学校に到着した。時差ぼけのためか食欲はなく、コンビニでおにぎりと豆乳を買い、乗り換えのタイミングで胃に流し込んでいた。朝練をしている部活はあるものの、まだ約束の時間まで余裕があるので、どうしたものかと考えていたが、駐車場にはすでに神崎のRX-7が停まっていたため、理事長室に向かうことにした。スポーツカーというのは、座席が2つしかないと冬希は思いこんでいたが、おしりを置く場所だけくりぬいたように後部座席があり、平良兄弟と3人で乗せてもらった時には、助手席を目一杯まえまで出さなければ全員乗れなかったこともあり、冬希はずっと前傾姿勢で首がモゲそうな思いをした、という記憶がある。

 理事長室といっても、特に豪華なつくりをしているわけではなく、扉も教室や職員室と大して変わらない。冬希はノックした。

「青山です」

 どうぞ、という返事があり、冬希は扉を開けて中に入った。

「早すぎたでしょうか」

「いや、構わないよ。いつも朝早くに、コカトリスに起こされるんだ」

「コカトリス…?」

「ああ、うちで飼っている鶏の名前だよ。娘が縁日で買ったひよこでね。今では立派な雄鶏なんだ。凄い声で毎朝鳴くんだよ」

「名前が特徴的ですね」

「娘がね。他にもバジリスクという名前のアカハライモリと、ハーピーという名前の文鳥もいるよ。名前以外はかわいいんだよ…」

 神崎は遠い目をしているように見えた。名前も、もう少しかわいいものにしてほしかったのだろう。

「時間を作っていただき、ありがとうございます。神崎先生」

「大丈夫だよ。ヨーロッパは楽しかったかい?」

「なんか、肉ばかり食べていた気がします…」

「ははっ、ドイツはそうかもしれないね」

 朝食はパンとチーズ、昼食と夕食は、肉料理ばかりだった。

「実はね、冬希君が相談したいという内容も、概ね想像はついては要るんだよ」

「そうなのですか?」

「昨日、JJという人から電話があってね」

 レースの賞品の送り先として、神崎高校のことをJJに話した記憶がある。こういう根回しまで考えての事だったのかと、冬希は感心した。神崎に相談内容を説明する手間が省けるのはありがたいことだが、大人たちの視野の広さというものに対して、自分はまだまだ子供だと実感させられてしまう。

 ヨーロッパに行くことになった経緯については、学校や部活を休まなければならなくなるということで、担任には親から、神崎には冬希から事情を説明してあった。そしてJJからの連絡で、だいたいの事の全容は、神崎は把握したのだという。

「なんか、すみません」

「いやいや、フィンランド人だから英語はすごく聞き取りやすかったよ。面白い人だね」

 JJがフィンランド人だという事も、冬希は知らなかった。神崎とJJは冬希以上にコミュニケーションが取れているのだろうか。フィンランド人の英語が聞き取りやすいという事も気づけなかった。自分の英語能力が上達したと過信するのは性急かもしれない。

「自分としては、どうしていいのか全く見当もつかず…」

「僕は、ヨーロッパで走ったとはいえ、コンチネンタルチームまでだったからねぇ。WCIプロチームで走るかなんて勧誘を受けたら、飛びついちゃってただろうけどね。そもそも自転車ロードレースのプロ選手になりたいと思っていた僕と、そういうことを考えたことがなかっただろう冬希君の心情が違う事は理解できるよ」

 そういうことか、と冬希は思った。なにに悩んでいるかも、なにに動揺しているかも、実のところ自分はわかっていなかった。神崎が言葉にして、はじめてそうかという発見があった。

「高校2年にして、就職について考えなければならないとは…」

「まぁ、郷田君がそうだったように、うちはオンライン授業でも大丈夫だから、高校生は続けられるよ。でもまあ、就職と言えば就職だよねぇ」

「そういうことになるのかな、とは思いますね」

「冬希君、君はアルバイトをやったことがあるかい?」

「いえ、お恥ずかしながら」

「別に恥ずかしがることは無いよ。高校生の本分は勉強だからね。仕事を探すときに、まず何を調べると思う?」

「仕事内容でしょうか」

「それも大事だね。ただ、もう一つあるんだ。お金を稼ぐためにやることだから、給料をいくらもらえるか、というところを確認しなきゃならない」

「なるほど、確かにそうですね」

「契約形態は、雇用契約で、年額€42,000だそうだよ」

「えっ?」

「700万円強というところかな。僕の方からJJに確認しておいたよ。16歳の日本人に対してという点を考えると、なかなか頑張ってくれている金額ではあると思うなぁ」

 冬希のお小遣いが月に5000円で、そのほかに一応親から支給されるのは、学校や部活がある日は1日1000円が昼食代として毎朝テーブルの上に置かれているぐらいだ。それも最近では姉に接収され、その代わりに居酒屋メニューで中身が茶色く染まった弁当が置かれているぐらいだ。

「ちょっと想像がつかないですね」

「僕がヨーロッパで走っていたころは、いろいろアルバイトもしていたけど、これだけもらっていたら、まあアルバイトはしなくても生活していけるだろう、っていう金額だね」

「16歳でそんなにもらえるものなんですか?」

「そういった意味で身構える必要は全くないと思うよ。日本でもそれぐらい稼ぐ子はいるだろうし。芸能関係の仕事をしてたりとかね。あとプロという意味では将棋や囲碁は中学生でもプロになるし、冬希君と同じ年でもっと稼いでいる子はいるだろうしね」

「自転車ロードレースの選手としてはどの程度なのでしょうか?」

「ワールドチーム、プロチームはそれぞれで最低賃金というのが定められているんだ。キングはプロチームだから€32,000ちょっとぐらいだったはず。つまり550万円ぐらいが最低の給料という事になる。ちなみに僕がヨーロッパで所属していたのはコンチネンタルチームだったから、最低賃金というのは特に定められていなくて€300、今だと5万円ぐらいだったね。年間だよ?」

「そうなのですか?」

「まあ、走らせてもらうだけでもありがたかったけどね。おっと余計なことを言ったね。僕が言いたかったのは、最低賃金よりそれなりに高い金額を払う意思があるということなんだ。つまりそれはキングがそれだけ君を欲しているという事だよ。他のチームは、日本人の高校生にそこまで出せないだろう、という意味での金額だと思えばいい」

 神崎が自分の立場だったらどうするか、冬希は訊いてみようと思っていた。しかし、その質問をしてはならないということを、今ははっきりとわかっていた。

「少し、自分が置かれている状況が理解できた気がします」

「それはよかった。キングについては、僕の方でももう少し調べてみるよ。チームの状況や、選手の育て方についてとか、事前に調べておいた方がいい事はたくさんあるからね」

 神崎の言葉に、冬希は時計を見た。始業の時間が迫っていた。

 神崎は自分がすべきことを言ってくれた。冬希は自分が何をすべきか、目まぐるしく考えた。

「家族と話してみます」

「うん、それがいい」

 ぼやけていた輪郭が、濃淡がはっきりしてきた、という程度だが、何か見えてきた気がした。

 冬希は立ち上がって、神崎に深々と頭を下げた。


 謙虚な子だ、神崎は思った。

 ニュルブルクリンクでのラスト1㎞映像は、動画配信サイトで見た。

 ゴール前ではメイン集団の、ここしかない、という位置につけ、文句のつけようのない完璧なタイミングでスプリントを開始した。

 俯瞰で見て、こうというのは簡単だが、実際に走りながらそれをやってのけるのは、冬希の持つ驚異的な技術だといってよかった。冬希がそれを見せたのは、一度や二度ではない。天性の嗅覚と呼べるものだと神崎は見ていた。

 随分といい思いをさせてもらった。

 自転車ロードレースチームの監督というのは、歯がゆい思いをすることが多いものだろうと覚悟していた。冬希に至っては、期待に勝るものをいつも与えてくれていた。

 勝てるものか、と思うようなレースで勝たせてもらったこともあった。そのたびに、胸にこみあげてくるものがあった。

 神崎は、冬希を理事長室の外に見送るために、立ち上がった。

 飾り気のない理事長室に、わずかに飾られたもの。

 昨年の全国高校自転車競技会の第1ステージで、初めて神崎高校にもたらされた、総合リーダージャージ。冬希がゴールスプリントで勝利して獲得したものだ。

 そして、先代理事長。神崎の祖父の写真。

 神崎がヨーロッパでコンチネンタルチームで走り続けているあいだ、ずっと応援してくれていた。生活に困っているだろうと、毎月20万円もの金額を神崎の口座に振り込み続けてくれた。

 そのお金は、まったく手を付けない状態でまだ当時の神崎の口座に残っている。自分の生活費は、自分で稼いだ。そこは神崎のプライドだった。それはそれでよかったと思っている。

 夢破れた神崎は、その通帳を見ると、当時の祖父の優しさに泣いてしまうのだった。

 今は違う感情で見れるような気がしていた。

 自分の教え子が、自分の望みえなかったものを手に入れようとしている。

 いや、冬希がどんな道を選ぼうと、神崎が失望することは無いだろう。

 ただ、自分がヨーロッパであの頃がんばっていた苦しい日々は、今この瞬間のためではないかと思えたのだ。

「冬希君」

 神崎は、思わず冬希の背中に声をかけていた。

「はい」

 冬希が振り向く。

「ありがとう」

 冬希は、少し驚いたような顔をしたが、笑顔で軽く頭を下げた。

 神崎は、笑っていた。

 壁にかかった祖父の写真は、優しい笑みを浮かべていた。

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