【外伝13】圧倒的
ヘルマンのジャン、ラスティが先頭をかけ、キングのエミリオが追う。ハーネのクルーゼは少し後ろにつけて、前の3人の様子を見ているような形になっていた。
ジャンは、チームメイトであるラスティに最も有利なペースで牽いている。それは、エミリオとクルーゼにとっては決して快適なものではない。
事実、徐々に脚が削られていっていることを、エミリオは感じていた。
最終周ももうすぐ16km。
後続は見えない。上りで引き離した。
残りは、10kmほどになる。
この状況で圧倒的に有利なのは、複数人いるヘルマン。
だが一人のロードレーサーとしてはクルーゼが強いのだろう。猛々しく、隙がない。
冬希のことは、今は考えられなかった。
ニュルブルクリンクの名物コーナー「カルーセル」。低速コーナーで、コンクリートのバンクになっている。4人ともバンクになっていないアスファルト舗装部分を走る。ここが出てきたということは、まもなく上りが終わるということだ。
ふと、後ろから気配が消えた。
エミリオの体がすぐに反応する。
クルーゼ。
バンクを利用して最上段からクルーゼが仕掛けた。
平坦に戻る。クルーゼの脚は止まらない。
エミリオは必死にチェックにつく。
背後に気配を感じる。ラスティ。
エミリオは振り向いた。ラスティの後ろで、そのアシストのジャンの姿は、すでに小さくなりつつあった。
「まずは一人」
エミリオは、クルーゼのそんな言葉を、聞いた気がした。
カルーセルの後、平坦があり、また上りが始まった。
ラスティは、ジャンを失った。
最初から、クルーゼが狙っていたとしか、思えなかった。
上りとはいえ、一度千切れたジャンが再び追いついてくることは不可能だろう。そういうジャンの使い方をしてしまったのは、自分自身だ。
分が悪い、とラスティは思わざるをえなかった。
ハーネのクルーゼも、キングのエミリオ・ロスも、オールラウンダーだ。しかも、平坦も走れるタイプのオールラウンダーである。その一方で、ラスティは山岳で差をつけて勝つタイプのオールラウンダーだった。
ラスティが得意とするような、長く傾斜の大きな上りはもうない。一度上りきれば、小さなアップダウンが続くだけだ。
長い長い、上りの頂上が近い。斜度14%超の激坂。勝機があるとするのであれば、この坂をつかって二人を置き去りにするしかない。
しかし、その後もまだ10km残っている。
特に、最後のドッティンガー・ホーエと呼ばれる3km近い直線。
クルーゼとエミリオを敵にまわし、一人で走り切れるのか。
ラスティは考えた。
脚が、動かなかった。
ドッティンガー・ホーエに入る頃には、ラスティの姿は見えなくなっていた。
エミリオとの勝負になることは、わかりきっていた。
上りの最後で、ラスティは動かなかった。それは、ディラン・クルーゼを楽にしただけだった。
プロチームにスカウトされなかった。そのことについてクルーゼは残念に思っていたが、もう執着はしていないつもりだった。
コンチネンタルチームに入り、かなりの実績をあげてきた。同年代で、プロチームに入ったものたちに、同じことができることならやってみろ、という思いもある。
しかし目の前に、プロチームで走る、年下の選手がいて、自分と優勝を争おうとしている。そのことがクルーゼの心にあった小さな波を荒だてている事実を、認めるほかなかった。
冷静さを失いかける自分に、こうとも言った。
エミリオを倒すことで、これまで取り憑かれていた妄執に、決着をつけることができる。
クルーゼは、指先を下に向けて、くるくると回した。
エミリオがクルーゼの前に出た。
広大なニュルブルクリンクの、気が遠くなるようなこの直線を、協調しながら走る。
エミリオとの、というより、長年自分が抱えてきた感情にケリをつけるのは、ゴール前になる。それまでは、誰にも邪魔されないよう。ペースを維持するべきだ。
クルーゼが走った時間と同じ分だけをきっちりと走り、エミリオは先頭交代を要求してくる。こういうところで少しでも脚を溜めようとか、こちらに脚を使わせようとかしてこない点、フェアな男だと感じる。
しかし、そういった正面から勝負しようという姿勢も、どこか舐められている気がして、気に食わなかった。
「まだ、余裕があるか。エミリオ・ロス」
「ある」
聞き返してはこない。こちらのことなど、意識していないとでもいうのか。
怒り、悔しさ。
正面から、堂々と勝たなければならない。
駆け引きだなんだと、つまらないことでこの勝負に影を落としたくはなかった。
GPコースへ入った。
観客が多くなったことは、歓声でのみわかった。
残り1kmのバナーを通過した。
スプリントに持ち込めば、エミリオにも負けることはない自信があった。
だが、だからこそ、クルーゼは早めにアタックをかけた。
エミリオがついてくる。引き離せない。
残り500m。少し離れた。
残り300m。完全に千切った。
勝った。プロチームのエースに。
完勝だ。興奮をともなう達成感が、全身をめぐっていた。
クルーゼは振り返った。
離れたところにエミリオがいた。
その後方。
メイン集団が迫っていた。
牽引しているのはグロッグとダナー。
負ける距離ではなかった。
後方でメイン集団からほとんど真横に何かが飛び出した。
キングのジャージ。
ほとんど一直線に突っ込んでくる。
踏みなおせばいい。
だが、それは、頭をよぎっただけだった。
天野は、冬希がスプリントを開始するまでアシストをしてきた。
自分が上手く立ち回れたとは、決して思えなかった。
2つのコンチネンタルチームが、ハイペースで牽引するメイン集団の中で、天野にできることは多くはなかった。
後ろで冬希は、本当に静かについてきていた。
だが、残り150mで飛び出した。
集団に残っていたスプリンターたちの中で、ずっと先にいるハーネのクルーゼを目指していたのは、冬希だけだった。
クルーゼも、スプリントを開始した。
それから、冬希が一瞬でクルーゼを抜き去るのを、天野ははっきりと確認した。
冬希に続いてクルーゼがゴールし、集団スプリントを行った選手たちがゴールラインになだれこんでいった。
天野はサイクルコンピュータを止めつつ、自分が12位か13位でゴールしたことを確認した。
ずっとさきで、先頭でゴールした冬希が立ち止まり、こちらを見ていた。
天野には、冬希がクルーゼをとらえたことが信じられなかった。
最後は2人のスプリント勝負になった。油断したわけではなかっただろう。だが、ここまで脚をつかってきたクルーゼは、冬希の敵ではなかった。
それにしても驚くべき圧倒的なスプリント力。舌を巻くしかなかった。
自分の、完璧とは程遠いアシストでも、しっかりと勝ってくれた。
天野は、冬希の前で自転車を止めた。
「さすがだな」
先に口を開いたのは、冬希だった。
「おかげで楽に勝てた」
「冗談だろ」
「そりゃまあ、少しは危ないかなと思ったけど」
勝ってひょうひょうとしている冬希に、天野は半ば呆れていた。
「青山のチームメイトが、どういう気持ちで一緒に走っているのか、分かった気がしたよ」
冬希が手を差し出す。
お互い、しっかり握り合った。




