二人の共通項
フランスのリセでは、伝統的に水曜日の午後に授業が組み込まれないことが多い。生徒たちにとってこの半日は、スポーツクラブや習い事に打ち込んだり、図書館でたまっている課題を片付けたり、あるいは気心の知れた友人たちと街へ繰り出したりと、思い思いの時間を過ごす貴重な息抜きの時間となっていた。
午前最後の鐘が鳴り響くと、校門の前で四人は足を止めた。
「じゃあなアンドレ、セシル! 明日の報告、楽しみにしてるぜ!」
「ふふ、邪魔者は退散するわね。また明日」
からかうような笑みを残し、実家へ帰るルイとマリアを見送ったあと、校舎を離れた通りでアンドレとセシルは二人きりになった。
「さて……まずは昼食にしようか。お腹空いたろ?」
「うん、ぺこぺこ!」
セシルの屈託のない笑顔を見ながら、アンドレは昨晩届いた姉イザベルからのメッセージを思い出していた。今日セシルと出かけると伝えた瞬間、イザベルは画面の向こうで飛び跳ねるように大喜びし、弟が初めての「デート」で失敗しないよう矢継ぎ早にアドバイスを送りつけてきたのだ。
『最初に入るお店選びがすべてよ、アンドレ! 男友達と行くような安っぽいファストフードは論外。かといって背伸びしすぎた高級店も緊張させちゃうわ。明るくて居心地が良くて、おいしいキッシュやタルティーヌが食べられる、落ち着いたビストロカフェを選びなさい!』
(姉ちゃんのアドバイス通りだな……)
アンドレは少し照れくささを感じつつ、事前に目星をつけていた旧市街近くのテラス席がある落ち着いた小さなカフェビストロへセシルを案内した。焼きたてのクロックムッシュとサラダが運ばれ、自然と話題はお互いの家族のことへと移っていった。
アンドレは、両親は今もベルギーのワロン地方で暮らしていること、フランスに来てコレージュへ編入した際はリヨンに住む姉一家の家にお世話になっていたことを話した。
セシルも自分の家族について語り始める。両親と、六歳年上の料理人をしている兄フレデリックのこと。そして、自分がコレージュに上がった頃から兄の恋人である日本人の大学生・ナナミが家に一緒に住んでいることを明かした。
「ナナミさんはパティシエールを目指していてね、お兄ちゃんはコックだから、家のごはんはいつもお兄ちゃんが作ってくれるの。すごく美味しいんだよ。……でもね、実は最初、ナナミさんが家に来たときはすごく嫌だったんだ」
セシルは少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「私、小さい頃からずっとお兄ちゃん子で。暗いところが怖くて一人で行けない時も、ずっとお兄ちゃんが手をつないでついてきてくれたし、いつも一緒に遊んでくれたの。だから、お兄ちゃんを取られちゃうみたいで怖かったんだと思う。……でも、ナナミさんが慣れないフランス語を一生懸命勉強したり、パティシエールになる夢に向かってひたむきに頑張っている姿を毎日見ていたら……いつの間にか大好きになって、自分のちっぽけな考えを改めたんだ」
穏やかに打ち明けたセシルは、ふとアンドレを見つめた。
「ねえ、アンドレはお姉さんが結婚するって聞いたとき、どんな気持ちだった?」
「俺? 俺はその時、まだベルギーにいて小学校五年生くらいだったな」
アンドレは温かい紅茶に口をつけ、当時を懐かしむように目を細めた。
「父さんも母さんも仕事で忙しかったから、姉ちゃんが親代わりに幼稚園や学校の送り迎えをしてくれたんだ。いつも俺の面倒ばかり見てくれてた。だから、姉ちゃんに大好きな人ができたって両親から聞いた時は、素直にすごく嬉しかったし、ほっとしたんだよ。『やっと自分の幸せを優先できるんだな』って」
アンドレは少し言葉を切り、続けた。
「小学校を卒業してリヨンに来て、姉ちゃん夫婦の家で暮らし始めた。でも、その途中で姪のエマが産まれたんだ。その時思ったんだよ。姉ちゃんには、これからは俺のことじゃなくて、今の新しい家族を一番に大事にしてほしいって。だから、リセに上がるタイミングで学生寮に入ることを決めたんだ」
「お姉さん、寮に入るって言ったとき何て言ってた?」
「あはは、姉ちゃんだけは大反対して引き留めてくれたよ。『家族なんだからずっと家にいればいい』って泣かれそうになった。でも、ベルギーの父さんや母さん、それに義兄のクロードさんにも説得してもらって、最後は受け入れてくれたんだ」
アンドレの話をじっと聞いていたセシルは、ふわりと胸を打たれたように目を輝かせ、優しく微笑んだ。
「……私たち、なんだかすごく似ているね」
「え、そうかな?」
きょとんとするアンドレに、セシルは頷いた。
「うん。ふたりとも年の離れた兄や姉がいて、小さい頃はその背中に守られて育ったこと。そして……ふたりとも、自分にとって一番大切だった兄や姉が『新しい自分の人生や家族』を歩み始めたときに、寂しさを抱えながらも、最後は誰よりもその幸せを一番に願って、一歩引いて応援することを選んだところ。兄や姉を大切に想う気持ちが、すごく似ているなって思ったの」
セシルの言葉に、アンドレは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じ、照れを隠すように笑みを返した。二人の距離は、家族を想う温かい共感によって、ぐっと近づいていた。
ビストロを出た二人は、穏やかな秋の風が通り抜ける通りを歩き、ベルクール広場の近くにある大型書店へと向かった。
天井まで届きそうな書架が並ぶ店内で、セシルは真剣な表情で本棚を眺めていた。
「アンドレ、フランス語の文法なら図解と例文が分かりやすいこのシリーズがいいと思う。それと、歴史と地理は年表と地図がカラーでまとまっているこっちの参考書がおすすめかな」
「おお……要点がすっきり整理されてて、すごく見やすいな。これなら俺でも挫折せずに読めそうだ」
アンドレが感心しながら参考書を手にしたその時、ふと隣の児童書コーナーが目に留まった。色鮮やかな表紙が並ぶ棚の平台に、愛らしい動物たちのイラストが描かれた飛び出す仕掛け絵本が置かれている。
(そういえば……エマは動物が大好きだったな)
三歳になる姪の無邪気な笑顔が頭に浮かび、アンドレは自然と目を細めた。
「どうしたの、アンドレ?」
「あ、いや……姪のエマが動物が好きでさ。これ、すごく喜びそうだなって思って」
「わあ、かわいい仕掛け絵本! うん、絶対エマちゃん喜んでくれるよ。優しいね、アンドレ」
セシルが嬉しそうに微笑み、アンドレは少し照れくさそうに参考書と一緒にその絵本をレジへと持っていった。
買い物を終えた二人は、ベルクール広場の木陰にあるベンチに腰を下ろした。広がる青空の下、セシルはさっそく買いたての参考書を開き、「ここが今度の単元の要点だよ」「この時代の流れは、この出来事とセットで覚えるといいよ」と指先で示しながら丁寧に解説を始めた。
セシルの淀みない説明を聞くうちに、アンドレの表情が明るくなっていく。
「なるほど……! 学校の教科書だと難しく感じてたけど、こうやって整理されるとすごく頭に入る。これなら次の授業にもしっかりついていけそうだよ、セシル」
「よかった! アンドレは理解が早いから、コツさえ掴めば大丈夫だよ」
二人で本を見つめながら夢中で話していると、広場に響く鐘の音が夕刻を告げた。時計の針はすでに十七時を回っている。
「もう17時か……早いな」
「本当ね、あっという間だった」
アンドレは手元の参考書を見つめながら、少し考え込んだ。外のカフェやベンチでは落ち着いて机を広げることも難しく、勉強できる時間にも限界がある。かといって、規則が厳しい自分の男子寮にはセシルを呼ぶことなど絶対にできない。
アンドレは胸の奥で息を吸い込み、勇気を振り絞ってセシルに向き直った。
「セシル。あのさ……もしよかったら、なんだけど」
「うん?」
「次の土曜日、俺の姉ちゃんの家で一緒に勉強しないか?」
セシルが驚いたように目を丸くする。アンドレは慌てて言葉を重ねた。
「外だと腰を据えて勉強できないし、うちの寮には呼べないだろ? 姉ちゃんの家なら静かだし、義兄さんもいるから安心だしさ。それに……姉ちゃん、セシルが俺に勉強を教えてくれてるって話したら、『ぜひ一度ちゃんとお礼がしたいから会ってみたい』ってずっと言ってて」
さっきカフェでお互いの家族について温かい話をしたばかりだったこともあり、セシルは緊張することなく、ふわりと柔らかな笑顔を咲かせた。
「うん、喜んで! 私もお姉さんやエマちゃんに会ってみたいな。ぜひお邪魔させて」
「本当? よかった! 姉ちゃんに伝えておくよ。聞いたら絶対に飛び跳ねて喜ぶと思う」
ほっと肩の力を抜いて満面の笑みを浮かべたアンドレだったが、ふと、ある二人の顔が思い浮かんだ。
「……ところで、これ、ルイとマリアにはどう言おうか?」
「あ……」
セシルも思わず苦笑いを浮かべる。あの鋭いマリアと、からかい上手のルイのことだ。「週末に姉の家で勉強する」などと話せば、二人がどんな反応を見せるかは火を見るより明らかだった。
夕暮れに染まるリヨンの街で、二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑い合った。




