Time is Money
プジョー308GTが校門を離れ、滑らかに車道を走り出した後、イザベルは横を向いてアンドレに尋ねた。
「そうや、アンドレ。お昼ご飯はもう食べた?」
「ううん、まだ済ませてないよ」と答えるアンドレに、イザベルは「じゃあ、途中のコンビニに寄るか」とハンドルを切った。
車が走り出してすぐ、アンドレは気になっていたことを切り出した。
「そういえばさ、姉ちゃん何でそんなスーツ姿なの? 確か今週は休みを取ってたはずだろ?」
するとイザベルは、きりっとした表情で答えた。
「服装や身だしなみを整えるのは、社会人として当然の常識や。それに今日、私は弟にマナーを教える教官の立場。その姉がだらしない格好をしていては、弟に示しがつかん。形から入るんや、形からな」
イザベルがあまりにもクールな教官口調で接するものだから、アンドレは思わずクスリとして、こう返した。
「そういえばさっき、校門にいた生徒たち、姉ちゃんの姿を見てめちゃくちゃ驚いてたよ。『めちゃくちゃ美人だ』とか『格好いいキャリアウーマンだ』とか『エージェントみたい』って大騒ぎでさ。女子の同級生なんて、『将来はあんな素敵な大人、あんな女性になりたい』って、みんな憧れの目で見てたぞ」
その言葉を聞いた瞬間、イザベルのクールな仮面が音を立てて崩れ去った。彼女の口調は一気にワロン訛りへと変わり、顔をほころばせた。
「ほんまか!? いやぁ、めちゃくちゃ嬉しいわ~!」
しかし、はっと気づいたイザベルは、慌てて「コホン」と力強く咳払いをした。真面目な表情に戻ると、キリッとした声で自分を戒める。
「あかん、あかん……! ここで私が浮かれていては、あの子たちの期待を裏切ることになってしまう。誰かの見本であるためには、いついかなる時も自分を律せなあかんのや」
そして、ふと助手席のアンドレに視線をやり、厳しい目を向けた。
「それとな、アンドレ。その姿勢は何や。背もたれにドサッとよりかからんと、背筋をまっすぐ伸ばしなさい。そんなんじゃ、せっかくのプジョーのシートが泣くで! セシルちゃんのご家族の前に立つ時はな、1ミリの妥協も許されへんのやからね!」と、イザベルはさらに語気を強めて指導するのであった。
プジョー308GTは程なくして、街のコンビニの駐車場へ滑らかに駐車した。
「姉ちゃんは昼食べないの?」と尋ねるアンドレに、イザベルはサングラスをずらしてスマートに微笑んだ。
「私はあんたを待っている間に、スマートに済ませてきたから大丈夫や。さて、アンドレ……」
彼女は腕時計の文字盤に目をやり、ピシャリと言い放った。
「制限時間は5分。車内で食べるものも含めて、さっさと選んで戻ってくること」
「えー、そんな急かさないでよ。ゆっくり選ばせてくれよ」とアンドレが抗議すると、イザベルは厳しい目を向けた。
「あかん! 時間はな、何よりも大切なお金やねん。これをデートに置き換えてみぃ。待ち合わせの時間に遅れてくる男はもちろん論外やけど、メニュー選びにモタモタしてすぐに決められない男なんて、それだけで幻滅されて終わりや!」
さらに、イザベルは車内で食べるものについても熱を込めて指導する。
「それにやな、車内で食べるチョイスも男のセンスが問われるんや。ポテトチップスやスナック菓子なんて論外中の論外やからね!」
その理由を問う間もなく、彼女は冷徹に言い放った。
「あんなボロボロと食べかすをこぼすものを車内で食べるなんて言語道断! もし食べかすを車内に残したりでもしたら、その場で容赦なく車から降りてもらうからそのつもりでいなさい。サンドイッチかおにぎり、このどちらかからスマートでスマートなものを選ぶのよ!」
その圧倒的なプレッシャーに押されるように、アンドレは慌てて「わかったよ!」と車を飛び出し、コンビニへと駆け込んだ。
店に入ったアンドレは、制限時間と「センス」を頭にフル回転させながら素早く棚を見て回った。選んだのは、車内でもこぼしにくく具だくさんで上品なローストビーフのサンドイッチ。そして飲み物を選ぼうとかつては大好きなコーラに手が伸びかけたが、炭酸は開ける時にプシュッと音を立てるし、こぼしたら大惨事になると直感し、ぐっとこらえてすっきりした緑茶を手に取った。レジを済ませて時計を確認すると、なんと制限時間内のわずか4分できっちり車に戻ってきた。
助手席のドアを開け、時間通りに戻ってきたアンドレを見て、イザベルはふっと満足そうな笑みを浮かべた。
アンドレはこぼさないように注意しながら、隣でしっかりとサンドイッチとお茶を平らげた。その行儀よく、きちんと指示を守る姿を横目で見ながら、イザベルは内心で(――やっぱり、あの全寮制の学校に入れたのは大正解やったな……)と、誇らしい気持ちで小さく頷いていた。
食べ終えると、アンドレは車内に設置されたゴミ箱に容器やペットボトルを綺麗に捨て、席に戻った。
それを確認したイザベルは、ダッシュボードから一冊の分厚い冊子を取り出し、アンドレに手渡した。
「ほら、これを受け取りなさい」
「これって……?」
「マナー教本や。あんたのために、私が二日かけて完璧に作り上げた特製マニュアルやからね」
イザベルは前方を向き直し、再びプジョー308GTを滑らかに発進させた。
「我が家に着くまでの間、一言一句もらさず、そこに目を通しておくことや。招待してくれたセシルちゃんに恥をかかせないために、今から予習は始まっているんやからね!」




