弟からのSOS
一週間後の月曜日の放課後。ルイ・ル=グラン高等学校リヨン分校の教室には、帰路につく生徒たちのざわめきが緩やかに満ちていた。
窓の外の夕暮れが教室の床を橙色に染める中、席を立とうとしていたアンドレに、セシルが少し頬を朱に染めながら近づいてきた。
「あの、アンドレ……」
「ん? どうしたの、セシル」
「今度の土曜日、もしよかったら……私の家で一緒にテスト勉強をしないかなって思ってさ」
セシルは少し照れくさそうに、けれど真剣な瞳でアンドレを見つめた。
「この前のお礼もしたいんだ。アンドレが私を家――イザベルさんの家に招待してくれたお礼も兼ねてさ。それに……両親や、お兄ちゃんとその彼女にも紹介したいんだよね。いつも苦手な理数科目を優しく教えてくれる、大切な友達としてさ」
その言葉を聞いた瞬間、アンドレはわずかに目を見開き、そして内心で大きく動揺した。
(……土曜日に、セシルの家に……?)
これまで、アンドレは人生で一度も女子の家に招かれた経験がなかったのだ。ましてや、友人としてセシルの両親や兄にまで紹介されるとなると、嬉しさや気恥ずかしさ、そして「一体どう振る舞えばいいのだろう」という慣れない緊張感が一気に押し寄せてくる。
しかし、セシルの真っ直ぐな好意と、この前の感謝を伝えたいという気持ちが嘘偽りのないものであることも痛いほど伝わってきた。
アンドレはゴクリと息を呑み、わずかにこわばりかけた表情を必死に取り繕いながら、静かにうなずいた。
学生寮の自分の部屋に戻ったアンドレは、机の上に鞄を放り出すと、深いため息をつきながらスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
コール音が数回鳴ったあと、聞き慣れた明るい声が耳に飛び込んでくる。
「もしもし? アンドレ? どうしたの、こんな時間に」
「……あぁ、姉ちゃん? 俺だけど」
「あら、珍しいじゃない。エマにでも会いたくなった? それとも、自慢のお姉ちゃんが恋しくなったのかしら?」
電話口の向こうで、イザベルがからかうようにフフッと笑う。エマというのは、イザベルと一緒に暮らしている愛犬の名前だ。
アンドレは気まずそうに頭をかいた。
「いや、そういうのいいから……。あのさ、姉ちゃん、ちょっと聞いてくれよ」
「ん? なによ、そんな真面目な声出して」
「実はさっき……セシルに、今度の土曜日に家でテスト勉強しないかって誘われたんだ」
「――へぇ、セシルちゃんが? いいじゃない、一生懸命で可愛い子じゃないの」
「そうなんだけどさ……。あの、その……俺、今まで人生で一度も女子の家に招待されたことがないんだよ。どうしたらいいのか全然分からなくてさ……」
受話器の向こうで、イザベルの息がパッと呑み込まれる気配がした。
「……は? ちょ、ちょっと待ってアンドレ。本気で言ってるの? あんた、女の子の家に一度も行ったことがないわけ?」
「声が大きいよ、姉ちゃん。本当だって。だから、すごく緊張してて……」
「そりゃそうよ! セシルちゃんがわざわざ自分の家に招待してくれたってことはね、あんたのことをそれだけ深く信頼して、大切に思ってるって証拠じゃないの! もう、本当にこの子は肝腎なところでウブなんだから……」
電話の向こうで、イザベルが盛大にやれやれと頭を抱えている姿が目に浮かぶようだった。だが、次の瞬間、イザベルのトーンがガラリと変わった。ふっと息を整えたかと思うと、彼女のなかで「姉としてのスイッチ」がカチリと音を立てて入ったのが、声のハリだけで痛いほど伝わってきた。
「いい? アンドレ。セシルちゃんに恥をかかせるような粗相をしたら、お姉ちゃんが許さないからね。そんな不安な顔してないで、今すぐお姉ちゃんがみっちりマナーを教えてあげる!」
「えっ、今から電話で教えるのか?」
「電話で済むわけないでしょ! 水曜日からうちに泊まりに来いさい。土曜日に向けて特訓してあげるから! 水曜日に学校に迎えにいくからね。あと、今週の水曜日から姉の家に泊まりますと寮の先生に言うのよ!」
有無を言わせぬイザベルの迫力に、アンドレは「はい……分かりました」とタジタジになりながらうなずくしかなかった。
セシルの家の一件を思い出し、イザベルはふふっと楽しげに笑い声を零した。
「それにしても、セシルちゃんかぁ……。この前、うちに来てくれたときも礼儀正しくて素敵な子だったもんね。あの子のためにも、しっかり紳士の振る舞いを叩き込んであげるから安心してちょうだい、アンドレ!」
新章スタートです! 果たしてアンドレは土曜日を迎えることができるでしょうか?




