理想と現実
ふと、イザベルは先ほどルフェーヴル先生が口にした言葉に引っかかりを覚え、小首を傾げた。
「あの……先ほどのお話の中で気になったのですが、『退寮』と『退学』とは、何か違いがあるのですか?」
その疑問に、ルフェーヴル先生は頷いて答えた。
「はい、全く異なります。生徒や保護者の間では『退寮になればそのまま退学になる』と噂されがちですが、実際のところ、我々学生寮の裁量だけで生徒を退学にすることはできません」
モルヴァン先生が、手元の冊子を開くよう促しながら説明を加えた。
「私どものお渡しした冊子をご覧いただくと分かりますが、寮側が下せる最も重い処罰はあくまで『退寮』――いわばこの寮から去ってもらうことまでです。しかし、退寮になったからといって、イコールこの学校の生徒でなくなったわけではありません。退学処分を下すには、厳正な懲戒委員会を経て、学校長が最終的な決断を下さなければならないのです」
その説明を聞き、イザベルは弟のアンドレが抱えていた過剰な噂や恐怖をようやく綺麗に振り払うことができ、胸をなで下ろした。
安心したのも束の間、イザベルはふと気になった別の疑問を口にした。
「あの……素朴な疑問なのですが、いっそのこと噂通りに、異性の立ち入りを厳格に一律禁止にしてしまうことはできないのでしょうか? 年頃の男女が同じ建物を行き来していると、先生方も管理が大変なのではないかと心配になってしまうのですが……」
ルフェーヴル先生は少し苦笑いを浮かべ、はっきりと首を横に振った。
「お気持ちは分かりますし、保護者の方々からそういったご心配の声をいただくこともあります。思春期の男女が近くにいれば、トラブルが全く起きないとは言い切れません。我々としても、何事もトラブルが起きない環境であればそれに越したことはありませんが……しかし、この学校の運営や建物の構造を考えると、それは物理的にも制度的にも不可能なのです」
ルフェーヴル先生は、その理由を一つひとつ丁寧に挙げた。
1. 公的な活動や用事による生徒の出入り
委員会活動、部活動、課外授業といった公的な用事や、生徒同士の連絡のために建物へ入る必要がある場合があります(なお、異性の寮生に個人的な用事がある場合は、必ず受付を通した上で共同スペースで面会することになっています)。もしこれを全面的に出入り禁止にしてしまうと、日々の学校生活や学習活動に大きな支障が出てしまいます。例えば、男女合同の生徒会役員が重要書類の受け渡しや会議の準備を行うことすらできなくなり、学業や自治活動が回らなくなってしまうのです。
2. リセの教育方針と生徒の自立心の育成
フランスのリセ教育は、単に管理して閉じ込めることではなく、生徒自身が自律心を持ち、社会的なマナーや節度をわきまえた上で行動できるよう育てることを重視しています。過度に隔離するのではなく、一定の規律の中で自制心を学ばせるのが教育方針なのです。
3. 建物の構造上の限界
当校の寮は、玄関ロビーや共有のラウンジスペース、食堂など、男女が共同で利用するエリアが存在します。構造上、それらの共有スペースを通らずに生活することはできないため、異性の建物の出入りや会話を完全に禁止するのは物理的に不可能なのです。
4. 運営コストと現実的な収容能力
仮に建物を完全に分けるとした場合、学校近くの広大な土地確保、別棟が完成するまでの莫大な時間、資金、そして何よりその間の寮生たちの住む場所をどう確保するのかという問題が生じます。寮生のほとんどは実家が遠方であり、簡単に代替の住まいを用意できるわけではありません。したがって、一律での禁止は現実的にも財政的にも不可能なのです。
ここでモルヴァン先生が言葉を継ぎ、ハンドブックの最初のほうのページを開くようイザベルに促した。
Article 2 (Responsabilité des résidents)
1. Les résidents doivent respecter le présent règlement ainsi que le règlement intérieur du lycée Louis-le-Grand (antenne de Lyon), et, en tant que membres de la vie communautaire, respecter la personnalité, les droits et les biens d'autrui.
2. Les parents, représentants légaux ou proches des résidents (ci-après dénommés « tuteurs ou représentants légaux ») sont tenus de comprendre le contenu de ce règlement et d'inculquer aux résidents la responsabilité de s'y conformer.
(第2条:寮生の責任)
1. 寮生は、本規則及びルイ・ル=グラン高等学校(リヨン分校)の校則を遵守し、共同生活の一員として他者の人格・権利・所有物を尊重しなければならない。
2. 寮生の保護者・親族等(以下「保護者等」という。)は、本規則の内容を理解し、これに従うよう寮生を指導する責任を負う。
モルヴァン先生は再び眼鏡をかけ直し、第2条の意味を穏やかに解説した。
「寮生もこの学生寮で生活している以上、当然ながら寮の規則は守ってもらわねばなりません。しかし、それ以上に我々は、この学校の『生徒』として校則全体を守り、人として成長することを求めています。また第2項では、保護者の皆様にもこの規則を深くご理解いただき、寮生を正しく導いていただく責任があることを定めているのです」
モルヴァン先生はさらに言葉に力を込めた。
「今申し上げた第2条第1項の趣旨――つまり『共同生活の一員としての社会性や人格の尊重』があるからこそ、異性の立ち入りを一律に禁止にするような極端な処置はできないのです。もし仮に、そんな無理な立入禁止令を出してしまえば、ルフェーヴル先生が述べた現実的な理由と相まって、校則や国の掲げる教育理念と完全に矛盾した歪んだ規則を生み出してしまうことになります」
「例えば……」とモルヴァン先生は続けて具体的な例を挙げた。
「もしそんな規則を作ってしまえば、『校則や通常の学校生活を送るための正当な活動を行っているだけで、いつの間にか寮の規則違反に問われてしまう』という事態が起き、生徒たちは校則通りのまっとうな学校生活を送るだけで退寮の危機に怯えなければならなくなります。あるいは、一般の通学の生徒や他の学校では認められている共同学習や行事の準備が、寮生という立場だけに異常に厳しい制限として課せられ、不当な不利益を被ることになってしまうでしょう」
それを聞いたイザベルは、これまでの学生寮に対する「古い修道院のような場所」という閉ざされたイメージがガラリと変わり、なぜこのような制度やルールになっているのか、その明確で合理的な理由の数々に深く納得したのだった。
こうしたい理想とできない現実というのはよくあるものですね。
皆さんは学生寮について男女別棟か、男女共同のどちらが良いと思いますか?




