それぞれの帰路と家庭の灯火
下校の鐘が鳴り響き、教室の前で「また明日ね!」と手を振り合ったあと、二人はそれぞれの家路についた。
セシル・サルヴェールが実家の玄関ドアを開けると、ホールいっぱいに香ばしいバターとハーブの香りがふわりと広がっていた。
「ただいまー!」
「おかえり、セシル」
リビングのオープンキッチンから顔を覗かせたのは、兄のフレデリックだった。22歳の若きシェフである彼は、182センチのすらりとした長身に短いブロンドの髪、そしてセシルとよく似た爽やかな青い瞳をしている。今日も左手で軽やかにフライパンを操り、鮮やかな手つきで夕食の仕込みをしていた。
キッチンカウンターの向こうでは、フレデリックの恋人であるナナミ・モチヅキが、デザート用のフルーツを丁寧にカットしていた。155センチの小柄な体躯に艶やかな黒髪を揺らす20歳の日本出身の大学生。パティシエールを目指して修業中の彼女は、一年前、セシルがリセに上がる少し前にこのサルヴェール家に同居し始めた。
「セシルちゃん、おかえりなさい。学校お疲れさま」
ナナミが柔らかく微笑みながら流暢なフランス語で声をかける。
当初、セシルはナナミに対して複雑な感情を抱いていた。大好きなお兄ちゃんを急に奪われてしまったような寂しさがあり、どうしても素直に受け入れられなかったのだ。だが、見知らぬ異国の地で必死にフランス語を学び、夢に向かってひたむきに努力するナナミの姿を見るうちに、意地を張るのが馬鹿らしくなっていった。何より最近、アンドレという「言葉や環境の違いに悩みながらも、一生懸命に伝えようとする友達」に出会ったことで、セシルの心はナナミの苦労や健気さにも深く寄り添えるようになっていた。今では二人の仲はすっかり打ち解けている。
「ナナミさん、ただいま! 今日もいい匂いだねぇ」
「ふふ、今日はリックが特製の仔牛のローストを作ってくれているのよ」
テーブルでは、仕事を終えた両親がセシルの帰宅に目を細めていた。
「セシル、今日もずいぶん機嫌がいいじゃないか。近頃、苦手だった数学や理科のノートを机いっぱいに広げて、楽しそうに勉強しているものな」
父親が温かい紅茶を口に運びながら笑い、母親も優しく頷く。家族にとって、以前はあれほど勉強に煮詰まっていたセシルが、見違えるように前向きになっている姿は何よりも安心できるものだった。
「実はね、すごく数学や理科が得意な友達ができたの!」
セシルはプラチナブロンドのポニーテールを弾ませ、誇らしげに胸を張った。
「その子がすごく分かりやすく教えてくれるんだ。だからお礼に、私の得意なフランス語や歴史のコツを教えてるの。……お互いに助け合える、すごく素敵な友達なんだよ!」
嬉しそうに話す妹の横顔を見て、フレデリックは左手のトングを置き、爽やかな笑顔を向けた。
「へえ、いい友達に恵まれたんだな。今度その子にも、うちの料理を食べさせてあげたいくらいだ」
家族の温かな笑い声が、ダイニングに明るく響き渡っていた。家族団らんの夕食を済ませた後、セシルは自分の部屋にある机に向かい数学のノートを見返した。
その頃、アンドレ・ランベールは学校から歩いて5分の男子学生寮の一室に戻っていた。
静まり返った部屋の電気を点け、机の前に座る。カバンから取り出したノートの余白には、放課後にセシルがさらさらと書き足してくれたフランス語の接続詞のバリエーションが、整った文字で並んでいた。
(……笑う人たちの方が変、か)
アンドレは昼休みにセシルが言ってくれた言葉を反芻していた。
自分のベルギー訛りを気にして、ずっと縮こまっていた胸の奥が、まだぽかぽかと温かい。
素の口調で「セプタント(70)」や「ノナント(90)」の話をした時、セシルはバカにするどころか、「すっごく合理的!」と目を輝かせて笑ってくれた。
ベッドに腰掛け、アンドレは天井を見上げた。
リヨンで家庭を築く姉のイザベルと夫クロード、そしてベルギーにいる両親。みんなが「大丈夫、味方だから」と背中を押してくれたけれど、その温かさを、今日セシルという同級生を通じて改めて本物の実感として受け取ることができたのだ。
机の上のスマートフォンを手に取り、アンドレは姉にメールを送った。
『姉ちゃんへ、実は今日、セシルにベルギー訛りのことを話したけど、全然気にしなかった。セシルは『訛りがあったって、相手に何かを一生懸命伝えようとすることの何がおかしいの? 違う国から来て、その国の言葉を一から必死に覚えて話している人だってたくさんいるじゃない。アンドレは国こそ違うけれど、同じフランス語を話しているんだから、そんなに思い詰めて苦労を感じる必要はない』と話してくれたよ。あと、ベルギー式の数え方であるセプタント(septante)やキャトルヴァン(quatre-vingt)、ノナント(nonante)の話をしたけど、『すごい合理的な数え方』と褒めてくれたよ。
姉ちゃんの言葉で仲良くなることができたよ、ありがとう』
するとアンドレのスマホから返信が来た。
『そうでしょう、私にも日本からフランスに来た人と知り合ったけど、彼女は自分の夢を叶えるためにわざわざ遠い国から来て慣れないフランス語を勉強していたんだから。今は問題なく話せているけど、彼女の苦労に比べたらあんたの心配なんて小さいものよ。セシルちゃんは素敵な考えを持っているわね。 勉強頑張るのよ。あと、今度セシルちゃん連れて家に遊びに来てね。姉として挨拶をしとかないとね。じゃあね』
アンドレは姉からの茶目っ気(?)あるメッセージに笑いながらも、机に向かった。明日の授業の予習をもう少し進めておこう。明日セシルに会ったとき、今日よりもう一歩、自信を持って言葉を交わせるように。
灰色がかったヘーゼルの瞳に静かな決意を灯し、アンドレは背筋を伸ばしてペンを握り直した。
プロローグは終了して、次回の話からは他の同級生も登場させます。




